白川郷・五箇山の合掌造り集落
登録年 1995年 登録基準(ⅳ)(ⅴ)文化遺産
登録基準
登録基準(ⅳ)
合掌造り屋根は、雪の重みと風の強さに耐えるため釘などの金属物は一切使用しないなど、環境や風土に合わせて生み出されたもの。日本の農村に見られる民家のなかでも、独特の特徴を持つ重要な様式の建築物群として高い価値がある。
登録基準(ⅴ)
合掌造り集落は、山間部で暮らす人々の文化を代表する伝統的集落であり、生産体制、大家族制度といった特性、伝統に見合った土地利用の顕著な見本。大集落(白川郷)、中集落(相倉:あいのくら)、小集落(菅沼)といった、タイプの異なる集落形態は、それぞれの共通性と独自性を示す。
遺産の概要
白川郷の萩町の59棟、五箇山の相倉の20棟、同じく五箇山の菅沼の9棟が世界遺産に登録。白川郷と五箇山は、約20km離れているが、南北に走る庄川と呼ばれる川で結ばれ、1つの文化圏を形成していた。
この地域は、標高2,702mの白山を中心とした山岳地帯であり、冬は日本でも有数の豪雪地帯として知られ、3つの集落では、1950年代までほかの地域との交流が大幅に制限されていた。庄川流域の狭い段丘面に築かれた集落で、稲作には適さず、農業はわずかな畑作のみ。それに代わる産業が養蚕や和紙漉き、火薬の原料となる塩硝などの生産であった。10~30人の一族が同じ家屋に暮らす大家族制度が守られた。こうした隔絶された環境、地域特有の社会環境や経済事情が、合掌造りという他では見られない建築様式をはじめ、独自の生活文化を生み出す土壌になった。
萩町集落(白川郷)
庄川右岸の集落。登録された59棟のうち、31棟が江戸時代に建設された。この地域の家屋には平入りが多いほか、「屋根に煙抜きがない」、「土間部に床が張られている」などの特徴がある。
相倉集落(五箇山)
3集落のなかで最も北に位置。20棟のほとんどが江戸時代から明治時代に建造されたものだが、昭和初期に建造されたものもある。平地が少ない河岸段丘に位置し、石垣によって敷地を平坦に造成するなどの工夫がある。
菅沼集落(五箇山)
富山と岐阜の県境に位置する集落で、9棟が登録。平入りが主流である白川郷に対し、菅沼では、妻入りが多くみられる。
「平入り ひらいり」難しい屋根の専門用語をやさしく解説。今日の屋根用語!第268日目 | 石川商店
歴史
石川県と岐阜県にまたがる白山は、8世紀頃から「白山信仰」と呼ばれる山岳信仰の霊峰とされていた。その白山を中心とする山岳地帯に位置する白川郷と五箇山は、同じく8世紀頃から修験道の修行場として開拓され、その後も長く天台宗の影響下に置かれた。13世紀半ばには、白川郷を中心に浄土真宗が広まり、集落ごとに寺院や布教のための道場が設けられた。浄土真宗のの思想は長く浸透し、隣人同士の強い結束を育み、相互扶助組織である「結」など、独自の社会制度を生み出す土壌となった。
江戸時代になると白川郷は高山藩→17世紀末に江戸幕府の直轄領→明治維新
合掌造りの特徴
①屋根
合掌造り家屋の特徴である45~60度の急傾斜の屋根は、豪雪地帯であるとともに、月の平均雨量が180mmに達する気候条件に合わせて生み出されたもので、雪降ろしの負担軽減、水はけを良くする効果をもつ。
②広い床面積
一般家屋に比べ、床面積が広い。塩硝は、床下の穴に雑草と蚕糞、土を混ぜ合わせたものを入れ、3~4年間、土壌分解させてつくっていたため、広い床面積が必要だった。また、伝統的に大家族制が守られ、広い居住スペースも必要。
③ウスバリ構造
岐阜県と富山県にまたがる伝統的な集落|たかはし さら|note
ウスバリとは、小屋組の床を構成する部分で、これにより小屋組と軸組が構造的、空間的に分離されていた。
村による共通点と相違点
共通点
結:家族だけでの生活は難しく、相互扶助組織である「結」による協力体制が発展。
相違点
煙抜き
五箇山:煙抜きあり
白川郷:煙抜きなし
入り口
五箇山(特に菅沼):妻入り
白川郷:平入り
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2017年7月1級問題
【問54】
白川郷・五箇山の合掌造り集落の白川郷で、13世紀半ばに広まり、この地域独特の社会制度を生み出すきっかけとなった仏教の宗派として、正しいものはどれか
①真言宗
②浄土真宗
③天台宗
④臨済宗
解答 正解は②
2017年12月1級問題
【問66】
白川郷に関し、合掌造り家屋に特徴的な構造で、小屋組と軸組を構造的・空間的に分ける小屋組の底辺(床)の呼び名として正しいものはどれか
①ウワラタ
②ウスバリ
③クサール
④タキエンタ
解答 正解は②
2016年7月1級問題
【問77】
白川郷・五箇山の合掌造り集落の白川郷で、「結」などに見られるこの地域独自の社会制度を生み出す土壌となった宗教思想として、正しいものはどれか
①曹洞宗
②臨済宗
③天台宗
④浄土真宗
解答 正解は④
2016年12月1級問題
白川郷・五箇山の合掌造り集落に関し、ブルーノ・タウトが語った文中の語句の組み合わせとして正しいものはどれか
・これらの家屋は、その構造が(A)であり、(B)であるという点においては、日本全国でまったく独特の存在である
①A.合理的ーB.経済的
②A.合理的ーB.論理的
③A.シンプルーB.経済的
④A.シンプルーB.論理的
解答 正解は②
姫路城
登録年 1993年 登録基準 (ⅰ)(ⅳ) 文化遺産
登録基準
登録基準(ⅰ)
大天守をはじめ建造物群のデザインには、木造構造の外側を土壁で覆い、その上に白漆喰を施した簡素な素材の外観に、複雑な構造の配置や屋根の重ね方を組み合わせる独自の工夫が見られる。別名「白鷺城」が示すように、その美しさは日本の木造建築のなかでも再興水準に達し、世界的にも類のない傑作。
しらさぎ画像元:https://kasukabe-farm.com/rice/egret/
登録基準(ⅳ)
日本の城郭建築が最盛期を迎えた17世紀初頭に築かれた姫路城は、天守群を中心に櫓(やぐら)や門、土塀などの建造物のほか、石垣、濠なども良好に保存されており、防御にも創意を凝らした日本独自の城郭構成を示す代表的な建造物。
姫路城の狭間:○や△、▢といった形が並ぶ。縦長の▢は矢狭間、○や△は鉄砲狭間
歴史
16世紀末、羽柴(豊臣)秀吉は中国地方を治める毛利家攻略の拠点として、古くから西日本における交通の要衝であった姫路市に新たな城を築くことを決める。当時、姫丘(日女道丘:ひめじおか)と呼ばれていたこの地域にあった城郭に、秀吉は1580年に手を加え、3層の天守閣を含む近代城郭とした。
1600年の関ケ原の戦いの後、城主となった徳川家康の娘婿である池田輝政は、1601年から1609年にかけて大改修を行う。シンボルである外観5層の大天守や2重の濠で囲み内郭や外郭を区分する曲輪構成などは輝政の時代に整備されたもの。
1617年に城主となった本多忠政は、長男の忠刻とその妻である千姫の居住の場となる西の丸の整備を行う。周辺に城下町も整備し、中心地としての役割を果たす。
江戸時代が終わると、明治政府は姫路城を軍用地として接収し、陸軍師団司令部施設や兵舎などが置かれた。
https://iirou.com/sengoku-ranking/
豊臣秀吉は織田信長に仕えていましたが1582年の本能寺の変で信長が明智光秀に殺されると、山崎の戦いで光秀を討ちます。その後、豊臣政権に移っていく。画像の通り、毛利と秀吉の位置関係を考えると姫路は重要な拠点だったといえそうです。
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2017年7月1級問題
【26】
『姫路城』は、繰り返し修復を行いながら保存がなされてきた。そのうちのひとつで、政府が修復を計画するきっかけとなった1934年の出来事として、正しいのどれか。
①姫路市の財政難で西の丸跡地が売りに出された
②空襲で化粧櫓などが焼失した
③豪雨で西の丸の櫓や石垣に被害が生じた
④大地震で石垣や「ぬの門」などが崩れた
解答 正解は③
1934年、豪雨で大きな被害を生じ、政府は姫路城の修理計画を立案。
2017年12月1級問題
【79】
『姫路城』において、大天守とともに四隅に配置され天守群を構成する建造物のひとつとして、正しいものはどれか
①乾小天守
②北小天守
③菱小天守
④百間小天守
解答 正解は①
2016年7月1級問題
【35】
『姫路城』の説明として、正しくないものはどれか
①数々の戦乱による焼失を経ながらも再建・保存されてきている
②修復作業を経ても創建当時の技術や意匠を引き継いでいる
③世界的にも珍しい木造城郭建築で、保存状態も非常にいい
④修復に際しては一部近代的な素材や構造物を取り入れた
解答 正解は①
2016年12月1級問題
【68】
『姫路城』に関し、「昭和の大修理」の際に加えられたものとして、正しいものはどれか
①鉄筋コンクリート製の基礎構造物
②強化プラスチック製の石垣
③展望用の天守閣の小窓
④火災消火用の貯水池
解答 正解は①
姫路城は、築城当初より礎石が天守の重みを支えきれず傾いており、その姿は「東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか」と謡われるほど。そのため、「昭和の大修理」の際に礎石が取り除かれ、鉄筋コンクリート製の基礎構造物に取り替えられた。
紀伊山地の霊場と参詣道
登録年 2004年/2016年範囲拡大 登録基準(ⅱ)(ⅲ)(ⅳ)(ⅵ)文化遺産
登録基準
登録基準(ⅱ)
空海によって創建された「高野山」には、多くの仏教建築が残り、「吉野・大峯」と「熊野三山」には、「神仏習合」の宗教観に基づいて築かれた仏教寺院建築群と独特の神社建築が残る。山岳景観とともに、文化的景観を形成し、日本各地へ伝えられ、それぞれの霊場形成のモデルとなった。
登録基準(ⅲ)
各社寺の境内や参詣道には、今はない木造及び石造りの建造物や宗教儀礼に関する豊富な考古学的文化財が残されている。今なお参詣者による宗教儀礼が行われるなど、宗教文化の重要な継承の場となる。
登録基準(ⅳ)
多くの仏教建築や「熊野三山」などの神社建築は、木造宗教建築の代表例。歴史上、芸術上の建築的価値が高い。近世以降、徳川幕府の諸大名によって高野山奥院に築かれた石塔婆は、規模や様式の多様性の点において重要であり、日本独自の石造廟様式の変遷を示す顕著な例。
登録基準(ⅵ)
建造物や遺跡は、神道と仏教、その融合の過程で生み出された「修験道」など、日本独自の信仰形態の特質を表す顕著な例。
構成資産
紀伊山地に点在する「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」の3つの霊場と、それぞれを結ぶ参詣道で構成。1,000~2,000m級の山脈が連なる紀伊山地は、多雨地帯であり、豊かな森林がある。古くから「神の宿る場所」として崇められ、山や森、川、滝などを神格化する日本古来の自然信仰を育む土壌となっていた。中国から仏教や道教が伝来すると、「神仏習合」、「浄土教」、「修験道」など信仰の聖地となる。そのため起源も内容も異なる3つの霊場と、参詣道が整備され、多くの参拝者が訪れるようになった。日本で初めての文化的景観が認められた。
吉野・大峯
水を支配し、金などの鉱物資源を産出する山として崇められた金峯山を中心とする「吉野」と、その南に連なる修験道の修行の場である「大峯」で構成される紀伊山地最北部の霊場。
・吉野山 青根ヶ峰を頂点とした山稜一帯。「千本桜」が有名
・金峯山寺(きんぷせんじ) 7世紀役行者が開山したとされる修験道の根本道場
・大峯山寺 標高1,719mの山上ヶ岳の山頂に立つ修験道の聖地
・吉野水分神社 水をつかさどる天水分命などをまつる。現在の社殿は豊臣秀吉が再建
・吉水神社 源義経、後醍醐天皇ゆかりの古寺。神仏分離令で神社に
・金峯神社 金など鉱物信仰が起源で、吉野山の最奥に建つ。祭神は金山毘古神
熊野三山
紀伊山地の南東に、20~40kmを隔てて点在する「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の総称。10世紀、神仏習合の広まりで、互いの主祭神を合祀し、「熊野三所権現」として信仰を集める。
・熊野本宮大社 かつては「熊野坐(にます)神社」と呼ばれ、起源は古代
・熊野速玉大社 原始信仰を受け継ぐ祭礼「熊野お灯祭り」で知られる
・那智大滝 133mの滝で、古代より神が宿るとして信仰
・青岸渡寺 5世紀にインドから熊野に漂着した僧によって開山したと伝わる
・補陀洛山寺 小舟で観音浄土を目指す「補陀洛渡海」ゆかりの寺
・那智原始林 約33万㎡の森林
熊野古道の見どころ|熊野古道・熊野三山ツアー・旅行│クラブツーリズム
高野山
金剛峰寺を中心とする「真言密教」の霊場。建築物群は、標高800mの山上にある約3k㎡の平地にあり、「八葉の峰」とも呼ばれる。本堂と多宝塔を組み合わせた伽藍配置は、真言宗寺院のモデル。かつて高野山は女人禁制であり、参詣する女性はふもとの慈尊院を詣でた。
・金剛峰寺 816年に空海によって開山、高野山真言宗の総本山
・丹生都比売神社 高野山一帯の地主神をまつる神社。金剛峰寺の鎮守神
参詣道
「大峯奥駈道(おくがけみち)」、「熊野参詣道」、「高野参詣道」の3つ。
・熊野参詣道 奈良、京都など各都市から、熊野三山へ至る参詣道の総称
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のすべて - 世界遺産 紀伊産地の霊場と参詣道 | わかやま文化財ガイド
熊野参詣道には紀伊路、伊勢路、小辺路(こへち)、中辺路(なかへち)、大辺路(おおへち)がある。
・中辺路:平安貴族公式のルート
田辺市から中辺路と大辺路の2本に分かれ、中辺路は田辺市から東に進み、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社につながる。奥深い緑の自然豊かな紀伊山地の山々を越えていく道で平安から鎌倉にかけて皇族や貴族の公式参詣道として一番利用された道
田辺市を南下し、そのまま紀伊半島に沿って那智勝浦町に至る道。大辺路は本州最南端の串本町も通り、大小様々な岩柱が見渡せる。冨田川の山王橋が有名。
・小辺路:山越えが必要なルート
北の高野山と南の熊野本宮大社の二大聖地を最短距離で結ぶルート。約70kmの間には、1,000m級の山々が連なる。
伊勢神宮と熊野三山を結ぶ参詣道。江戸時代には「伊勢に七度(ななたび)、熊野へ三度(さんど)」と表現されるほど、庶民にとって2ヵ所を参拝することは憧れだった
・紀伊路:大阪から和歌山西部をつなぐ南北道
歴史
7世紀後半、仏教が国家を鎮護する宗教になると、自然信仰の神域とされていた紀伊山地では、山岳信仰が盛んに行われるようになった。
816年、空海が「金剛峰寺」を創建、真言密教の修行場として定着。
9~10世紀、「神仏習合」の思想が広まり、「熊野三山」などを中心に建造物が建立。道教の神仙思想と日本の山岳信仰が融合、独自の宗教である「修験道」が成立。その中心が吉野・大峯であり、多くの修験者が集まるようになった。
11世紀、「浄土教」の流行で、死後の成仏を願う皇族や貴族、有力武士により、多くの寺社が建立。参拝に訪れ、次第に各霊場や参詣道が整備されていく。
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2017年7月1級問題
【問84】
『紀伊山地の霊場と参詣道』の高野山にある「金剛峰寺」に関する以下の文中の空欄に当てはまる語句として、正しいものはどれか
・高野山は金剛峰寺を中心とする真言密教の霊場で、( )を組み合わせた金剛峰寺の伽藍配置は、全国の真言宗寺院のモデルとなった。
①本堂と多宝塔 ②本堂と三重塔 ③薬師堂と経蔵 ④薬師堂と回廊
解答 答えは①
2017年12月1級問題
【問45】
『紀伊山地の霊場と参詣道』の「吉野・大峯」にある「金峰山」の説明として、正しいものはどれか
①年間降水量が5,000mmを超える多雨地帯である
②かつては女人禁制であり女性はふもとの慈尊院を詣でた
③水を支配し、金などの鉱物資源を産出する山として崇められた
④山上にある約3k㎡の平地には金剛峰寺がたつ
解答 答えは③
①年間降水量は3,000mmを超える多雨地帯
④金剛峰寺がたつのは高野山
2016年7月1級問題
【問75】
『紀伊山地の霊場と参詣道』に関する次の文中の語句のうち、正しくないものはどれか
『紀伊山地の霊場と参詣道』は、(①空海)によって創建された(②真言密教)の霊場である「高野山」と、その修験道の霊場である「吉野・大峯」、神仏習合の思想に基づいて作られた「熊野三山」、そしてそれらをつなぐ「参詣道」からなる。「(③吉野・大台ヶ原)」はユネスコの(④生物圏保存地域)にも指定されているが、これは修験道が霊場としたことで木々の伐採が禁じられたことと関係している。
解答 答えは③
大峯:大台ヶ原・大峯山として生物圏保存地域に指定されている。
2017年12月1級問題
【問49】
『紀伊山地の霊場と参詣道』の「吉野・大峯」に含まれる「大峯」は、「大台ヶ原・大峯山」として生物圏保存地域に指定されている。文化遺産でありながらそうした自然環境が残された理由として考えられるものはどれか
①14世紀の南北朝時代に南朝の拠点が置かれ、天皇の行在所として一般人の入山が禁止されたため
②役行者が桜の木に蔵王権現を彫り込んだという言い伝えにより、桜の木の伐採が禁止されたため
③1872年の修験道廃止令により、この地域での全ての宗教活動が禁止され、自然環境に人の手が入らなくなったため
④修験道の霊場として木々の伐採が禁止され、自然林の植生が良好に保たれたため
解答 答えは④
宿泊
里創人 熊野倶楽部
古都奈良の文化財
登録年 1998年 登録基準(ⅱ)(ⅲ)(ⅳ)(ⅵ)文化遺産
登録基準
●登録基準(ⅱ)
8世紀、中国や朝鮮半島から伝えられ、日本独自に発展した仏教建造物群は、高度な文化的、芸術的水準を有していたことを物語り、文化的交流の歴史を示す。中国や韓国では、同年代の木造建築の大部分が失われており、価値が極めて高い。
●登録基準(ⅲ)
古代都城を構成する資産群。710年から784年までの約74年間の都であり、「平城京跡」は、考古学的遺跡としての価値も高い。現在の奈良市は、平城京の中心から離れた場所で発展したため、当時のままの地下遺構が良好な状態で残っている。
●登録基準(ⅳ)
各寺院、神社からは、宗教の影響下で津令制が日本全国に定着。そして、寺院や神社の力が社会的、政治的に大きくなっていった様子がわかる。奈良時代の建築様式を留めており貴重。
●登録基準(ⅵ)
建物が神道や仏教などの宗教的空間の顕著な特徴を示す。春日山原始林は、自然の山や森を神格化しようとした日本独特の神道思想。現在でも、宗教儀式や行事が盛んに行われており、宗教文化を継承している点も重要。
構成資産
元興寺、興福寺、薬師寺、春日大社、春日山原始林、平城京跡、唐招提寺、東大寺
8資産で構成
(1)元興寺(がんごうじ)
6世紀に蘇我馬子が建立した「飛鳥寺」が起源。8世紀に平城京に移築。
蘇我馬子が建立したとされる飛鳥寺は、日本最古の寺院。かつては南都七大寺の1つで広大な寺院だったが、現在は僧坊遺構の極楽堂と禅室を残すのみ。
(2)興福寺
遷都に伴い、山階(現・京都市山科区)から飛鳥を経由し移築された669年創建の寺院を起源。710年、藤原不比等によって移築された後は、藤原氏の氏寺として、大いに繁栄。
法相宗の大本山。前身である山階寺(やまなしでら)は669年に藤原鎌足が重い病気を患った際、夫人である鏡女王が、夫の回復を祈願し造営したと伝えられ、壬申の乱(672年)の後、飛鳥に都が戻り、地名をとって「厩坂寺」と名付けられ、710年の遷都とともに興福寺に名付けられる。
日本国内の国宝の仏像の15%を興福寺が所蔵しており、まさに国宝の宝庫。その大半が国宝館に安置。その中でも人気なのは「阿修羅像」。3つの顔に6つの手といえば容易に想像がつくでしょう。幼年期、思春期、青年期の顔という事で微妙に表情も違うよう。
(3)薬師寺
680年に天武天皇によって建立。718年に藤原京から平城京に移築。「薬師寺伽藍配置」で知られる。火災や台風により、現在は東塔のみ残っている。
金堂前面の東西に白鳳文化の代表例とされる三重塔が立つのが薬師寺伽藍の特徴。
(4)春日大社
藤原氏の氏神をまつる神社。藤原氏や朝廷の崇敬を受け繁栄。平安時代後期に興福寺と一体化されたが、明治の「神仏分離令」で再び分けられた。本殿は春日造りで、春日神(たけみかづちのみこと、ふつぬしのみこと、あめのこやねのみこと、ひめがみ)と称される4柱が4棟に分かれて祀られている。
※春日造
流造に次いで普及。奈良を中心に近畿圏に多い。妻側の中央に入り口を持ち、妻側に向拝を設けている。
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(5)春日山原始林
春日大社の社殿周辺から御蓋山(三笠山)、春日山にかけては聖域とされ、841年に狩猟と伐採が禁止。以降は神山として守られてきた。山中の水源には、水神・雷神がまつられ都の守護神とされていた。
(6)平城京跡
1955年から発掘調査が始まり、建物の配置や変遷、役所名などの律令組織、行政や生活の実態が明らかになっている。
(7)唐招提寺
759年に鑑真が創建。律宗の総本山。
鑑真(688~763年)唐の揚州で生まれ、14歳で出家。遣唐使で唐を訪れていた留学僧から朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。12年間に5回の渡航を試みて失敗、、753年6回目の渡航で遂に成功。66歳。
その後、渡日してからの10年を東大寺で5年、唐招提寺で5年過ごす。
(8)東大寺
華厳宗の大本山。南大門、法華堂、鐘楼、金堂(大仏殿)、銅造蘆舎那仏坐像、開山堂、転害門、本坊経庫、正倉院正倉が国宝。
聖武天皇が建立。皇太子供養のために建立した金鐘寺が東大寺の始まり。
歴史
710年に遷都。政治、経済、文化の中心となる。
718年に元興寺、薬師寺が旧都である飛鳥藤原地方から移築される。
720年頃には興福寺の建造。
745年には、東大寺の建造。さらに745年、唐から鑑真が来日。
759年には唐招提寺の建立が始まる。
768年、春日大社の創建。
平安京に遷都した後も朝廷の保護下のもと造営工事も継続して行われる。平安時代末の1180年、内乱により、東大寺と興福寺では、伽藍の多くが焼失。室町時代入ると奈良の神社の多くは衰退。明治維新後の近代化のもと、国内の文化財軽視の風潮は奈良の建造物群にも及ぶが、その後、様々な法が制定され保護されるようになる。
過去問にチャレンジ!!!
2017年7月1級問題
【問83】
『古都奈良の文化財』に含まれる構成資産で、次の3つの説明文から推測されるものとして、正しいものはどれか。
ー極楽坊の本堂の屋根瓦には飛鳥時代の瓦も残されている
解答 答えは②
2016年7月問題
【問74】
『古都奈良の文化財』に含まれる元興寺の説明として正しくないものはどれか
①奈良時代後期には、南都(平城京)七大寺のひとつとして繁栄した
②本堂の瓦には、飛鳥時代の瓦も残る
③8世紀に飛鳥寺から移築された
④南に位置する元興寺を丘の上から見下ろすように建っている
解答 答えは④
④は興福寺のことを指している。
2016年12月1級問題
【問65】
下線部(a)「東大寺山界四至図」の説明として正しいものはどれか
③9世紀に東大寺の寺歴を描いた絵巻図
④7世紀の大仏開眼法要で奉納された、平城京の領域を描いた絵図
解答 答えは①
http://www.nara-wu.ac.jp/aic/gdb/mahoroba/y18/
宿泊
奈良 万葉若草の宿 三笠
すぐ眼下には東大寺の大仏殿を望むことができ、奈良市内も見渡せる高台にあるお宿だそう。
お得な切符があるようで、
1日コース:大人1500円(小児半額)
2日コース:大人2000円
というのがあるそうです。斑鳩といえば法隆寺があるエリアですので、2日あればしっかり見て回ることができそうですね。
法隆寺地域の仏教建造物群
登録年 1993年 登録基準(ⅰ)(ⅱ)(ⅳ)(ⅵ)文化遺産
登録基準
●登録基準(ⅰ)
法隆寺と法起寺に残る木造建造物群は、全体の設計とデザインが素晴らしく、エンタシスを持つ太い柱や、雲形の肘木(ひじき)や斗(ます)などの細部の装飾も優れていて芸術的価値が高い。
※エンタシスとは柱の中央部分を膨らませた形状。ギリシアのパルテノン神殿などでも用いられる。
ギリシアといえばこれですねよね。名前を知らなくても見たことはあるって人は多い。
●登録基準(ⅱ)
法隆寺地域の仏教建造物は、日本における仏教建造物の最古の例として1300年間の伝統のなかで、それぞれの寺院の発展に影響を及ぼした。
●登録基準(ⅳ)
7~8世紀初頭の建造物には6世紀以前の中国建築と共通する様式上の特色が見られる。8世紀の建造物は、唐の様式も見られる。この時期に中国と日本、東アジアにおける密接な建築上の文化交流があったことの証明である。
1つの地域に7世紀から19世紀までの各時代における優れた木造建造物が保存されている例は他に類がない。
●登録基準(ⅵ)
仏教はインドから中国朝鮮を経由して6世紀半ばに伝わる。聖徳太子は当時仏教の普及にきわめて熱心で、太子ゆかりの法隆寺は日本の仏教の最も古い時代の建造物を多数保存しており、宗教史の観点からも高い価値がある。
構成遺産
法隆寺の西院伽藍の金堂、五重塔、中門、回廊、法起寺三重塔などの8世紀以前に建造された11棟の建物は、現存する世界最古の木造建造物である。
法隆寺西院伽藍は東に金堂、西に五重塔が並び、「法隆寺式伽藍配置」と呼ばれる。金堂や五重塔には、「雲型組物」が用いられている。また、法隆寺中門は、通路となる門の中央部に柱を置く「四間門」である。中門の左右には阿形と吽形の2体の金剛力士像が置かれる。
写真の手前に見えるのが中門。そこに2体の金剛力士像がいます。
【阿吽の呼吸】と聞くと2人で息を合わせるイメージですね。
口を開いて最初に発せられる音のことを「阿」。口を閉じて最後に発せられる音のことを「吽」という。ここから、「阿吽」は宇宙の始まりと終わりを意味するようになった。後に、「阿」は真実の追求、求道の心、「吽」は智慧、涅槃を表すようになった。また、一対のものを表すようになった。例えば、社寺の本殿の前に置かれる狛犬、仏法の守護神である金剛力士像、仁王像がそうである。更に、「阿吽」は転じて二人の人が息を合わせ共同で活動する意味となった。日本語に、「阿吽の呼吸」という言い方がある。例えば、相撲の取り組みで、二人の力士が立ち会いで息を合わせた後、立ち上がって取り組みが始まる。この、二人が息を合わせるのが「阿吽の呼吸」である。
左が(吽形) 右が(阿形)
金剛力士像と言えば、昔の教科書で習いましたし、写真を見て分かる方も多いと思います。では、どっちが阿形(あぎょう)で吽形(うんぎょう)と聞かれてすぐに分かる人は意外に少ないと思います。実際に私も今回、調べて初めて知りました。言葉の意味を理解していくと、どっちがすぐに分かりますね。
他にも、世界最古のものはウィキペディアに載ってました。
ただし、あくまでもではないかという建造物が多いのも確かです。当時を生きた人がいる訳ではないので、特定するのはとても難しいことですね。
歴史
法隆寺地域における最初の仏教寺院は、607年に推古天皇とその摂政を務めた聖徳太子によって築かれた若草伽藍(斑鳩寺(いかるがでら))である。670年に焼失しているが、遺構は法隆寺境内の地下に残る。現在の西院伽藍の起源は7世紀後半から8世紀初頭に若草伽藍から場所を移して再建された寺院と考えられている。東院伽藍が築かれたのは8世紀前半。聖徳太子没後の739年に、住居だった斑鳩宮跡に聖徳太子の霊をまつるために建設された伽藍(上宮王院(じょうぐう))が起源とされる。
法起寺は、聖徳太子の死後の7世紀に、その子息である山背大兄王(やましろのおおえのおう)が、聖徳太子の宮であった宮本宮跡に建立した寺を起源。16世紀末の戦乱でほぼ焼失、高さ24mの三重塔が残るのみ。
法隆寺をはじめこの地域の寺院は、「鎮護国家の寺」として、天皇家に手厚く保護された。12世紀になると、一般人にも「聖徳太子信仰」が始まり、法隆寺をはじめ多くの信者が訪れた。各時代の権力者のもとで保護されてきたが、明治維新を迎えると神道を重んじ仏教を排除する思想のもとで次第に荒廃。しかし、1897年、明治政府のもとで「古社寺保存法」の制定されると再び保存されるようになった。
過去問にチャレンジ!!!
2017年7月1級問題
【問68】
法隆寺地域の仏教建造物群の法隆寺西院伽藍の中門に見られる「四間門(しけんもん)」の特徴として、正しいものはどれか
①四本の柱で囲まれた門である
②僧職に就く者だけがくぐることを許されている
③横幅が四間ある石門である
④門の中央部に柱が置かれている
解答 答えは④
中央に門、左右に金剛力士像が立っているのが分かります。
2017年12月1級問題
【問80】
法隆寺地域の仏教建築物群の説明として正しいものはどれか
①アーネスト・フェノロサと岡倉天心が開示を要求したことで、秘仏であった釈迦三尊像の姿が明らかになった
③法隆寺で行われてきた木造文化の保存・修復の歴史が「奈良文書」の採択に影響を与えた
④明治維新以降の廃仏き釈(はいぶつきしゃく)のなかで法隆寺も廃寺となっていたが、世界遺産登録に向けて保存活動の中で再興した
解答 答え③
世界遺産における真正性という考え方は、当初、石の文化の建造物のように当時のものがそのまま残っていることが重視されていたため、木や土の文化においてはその建造物の真正性が認められにくかった。日本政府は、木の文化における保存・修復の歴史を説明し、それが「真正性における奈良会議」につながった。採択には、「法隆寺地域の木造建築物群」で行われてきた木造文化の修復の歴史が大きく影響している。
①の開示要求は、夢殿の本尊「救世観音菩薩像」である。聖徳太子の等身と伝えられる。
夢殿秘仏・救世観音菩薩立像|法隆寺|斑鳩町|生駒・信貴・斑鳩・葛城エリア|秘宝・秘仏 特別開帳|祈りの回廊 [奈良県 秘宝・秘仏特別開帳]
②夢殿があるのは東院伽藍。現存する最古の八角円堂である。
2016年7月1級問題
【問79】
法隆寺地域の仏教建造物群の西院の金堂に安置されている象として正しいものはどれか
②救世観音菩薩像
③弥勒菩薩半か思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)
④不空成就如来像
解答 答えは①
法隆寺・(金堂)釈迦三尊像「釈迦如来と文殊菩薩?普賢菩薩??」 | 法隆寺-御朱印
②は法隆寺の東院、夢殿
2016年12月1級問題
【問48】
法隆寺地域の仏教建造物群の説明として、正しいものはどれか
①7~8世紀初頭にかけて築かれた建造物からは、6世紀以前の中国建築と共通する様式上の特色がみられる
②法隆寺と法起寺はかつてひとつの寺院であったが、12世紀の聖徳太子信仰のなかで別の寺院として分けられた
③西院本堂にある救世観音立像からは北魏時代の中国文化の影響がうかがえる
④法隆寺をはじめとする寺院は、「鎮護国家の寺」として古くより天皇家によって手厚く保護されており、現在は宮内庁の管轄下におかれている
解答 答えは①
③は釈迦三尊像のこと。釈迦三尊像のアルカイク・スマイル(古式の微笑み)などに北魏時代(6世紀)の中国文化の影響がうかがえる。
④は宮内庁ではなく、国家の保護下にある。
宿泊
門前宿 和空 法隆寺
法隆寺の参道にあり、法隆寺から最も近いお宿だそう。懐石料理は神田川敏郎さんの監修。雰囲気も素晴らしく、子供が大きくなったら夫婦で行きたいですね。
参考文献
●世界遺産大事典<上>
世界遺産の基礎知識、日本の世界遺産、アジアの世界遺産、アフリカの世界遺産、オセアニアの世界遺産を網羅。ブログを書いていく上で参考にさせてもらっています。読むだけで、今まで知らなかったことがどんどんわかって楽しくなるのでぜひ読んでほしいです。
『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群
登録年2017年 登録基準(ⅱ)(ⅲ) 文化遺産
福岡県
登録基準
●登録基準(ⅱ)
沖ノ島の神を東アジアにおける対外交流の航路の守り神としたため、当時の先進技術で作られた奉献品を使い古代祭祀が行われた。4世紀後半から9世紀末の約500年の祭祀の変遷を伝える考古遺跡がほぼ手つかずで残っている。
●登録基準(ⅲ)
沖ノ島は1500年以上にわたり信仰の対象となってきた。今も入島を制限している。沖ノ島、大島、九州本土の宗像大社三宮では、宗像三女神の信仰が生まれ現在に伝えられる。
構成資産
「沖ノ島」「宗像大社」「古墳群」の3つの要素で構成される8資産からなる。3つの要素が一体となり、宗像・沖ノ島の信仰の歴史を証明。
(1)沖ノ島
九州本土から60㎞の玄界灘の海上に位置。日本列島から朝鮮半島や中国大陸へ向かう航海上の目印になる島。島全体が自然崇拝の信仰を集め、海の航海の安全を祈る場所となった。4世紀はヤマト政権と朝鮮半島の百済の結びつきが強い時期。
【岩上祭祀】巨岩の上で祭祀
↓
【岩陰祭祀】
↓
【半岩陰・半露天祭祀】
↓
【露天祭祀】平らな場所での祭祀
時代と共に祭祀の形態が変化していった証拠が残されている。それぞれの場所で約8万点もの各時代の貴重な奉献品が発見され、その全てが国宝に指定されている。
(2)宗像大社
自然崇拝から始まった沖ノ島の信仰が、宗像三女神という人格を持った神に対する信仰へと発展。その両者が共存しながら宗像・沖ノ島の信仰を作ったことを証明。
また、露天祭祀から社殿を持つ祭祀へと発展しあことも示す。8世紀の古事記や日本書記にも名前が残っており、歴史は古い。
①「沖ノ島」とそれに付随する岩礁②「小屋島」と③「御門柱」、④「天狗岩」からなる信仰の場。3つの岩礁が物理的に離れているため個別の構成資産として区別 されている。しかしかし、価値の観点から沖津宮という1つの神社を構成している。宗像三女神の田心姫命(たごりひめのかみ)が祀られている。
⑤遥拝所は沖ノ島から約48km離れた大島にある信仰の場。通常は渡ることのできない沖ノ島を遠くから拝むため、宗像大社の一部として設けられる。晴れていれば沖ノ島を望むことができる。
⑥中津宮は宗像三女神のうち、たぎ津姫命(たぎつひめのかみ)が祀られる。遥拝所と同様に大島にある。
⑦辺津宮は三女神のうち市杵島姫命(いちきしまひめのかみ)が祀られている。現在の宗像大社の神事の中心。
新原・奴山(しんばる・ぬやま)古墳群
⑧古墳群は宗像氏の墳墓群。
(3)古墳群
沖ノ島を信仰する伝統を継承した宗像氏の墳墓群。海を望む台地上に5世紀から6世紀にわたり41基の大小様々な墳墓が一体的に築かれている。
宗像氏
大国主神の6世孫、あるいは三女神の7世孫の吾田片隅命の子孫と伝わるが不明が多い。
海洋豪族として玄界灘全域にわたる膨大な海域を支配。914年頃までは胸形、宗形、胸肩氏などと表記。
歴史
3世紀頃、日本の中央にヤマト王権が誕生。4世紀頃になると、朝鮮半島の百済と友好関係を結び、鉄資源や技術、文化を入手。その勢いを強大化させていく。そのヤマト王権が対外交流を行うためには、海を越える航海術を持つ宗像氏の協力が不可欠であった。
宗像氏は航海の道標となる沖ノ島を信仰しており、ヤマト王権も沖ノ島で祭祀を行うようになった。宗像氏もまた、ヤマト王権に協力することで勢力を拡大。
その後も、中国大陸への遣隋使、遣唐使などの派遣。9世紀に至るまで、文化や法制度を手に入れるため遣唐使や朝鮮半島の新羅への派遣は続いた。
過去問にチャレンジ!!
2017年7月1級検定
【問88】
『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群に対して2017年5月に出された勧告内容として、正しいものはどれか。
①構成資産のうち4資産にのみ登録を勧告する
③風力発電施設の建設中止を含む保全計画の再提出を求め情報照会を勧告する
④登録基準(ⅲ)の再証明を求め情報照会を韓国する
解答 答えは①
ICOMOSの事前勧告では、沖ノ島と小屋島、御門柱、天狗岩の4資産にのみ「登録」勧告が出された。世界遺産委員会では、日本の主張した三社一体の信仰が評価され、8資産全体での登録となる。基準は(ⅱ)、(ⅲ)のみ認められ、(ⅵ)は認められなかった。
2017年12月1級検定
【問3】
『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群で認められた登録基準として、正しいものはどれか。
①登録基準(ⅱ)と(ⅲ)
②登録基準(ⅰ)と(ⅱ)
③登録基準(ⅰ)と(ⅴ)
④登録基準(ⅳ)と(ⅵ)
解答 答えは①
宿泊
御宿 はなわらび
宗像で調べると自慢は海鮮のようです。どこのホテルも美味しそうな食事がある中で、庭園のような立派な庭もありいいですね。宗像大社の辺津宮も近そうですし、海も眺めることができる。
博多から、宗像は30㎞ほどという事で、福岡観光し宗像へ足をのばすのもいいですね。まだ、九州には一度も行ったことがありません。九州だけで見ても、宗像以外にも長崎キリスタンや明治日本の産業遺産、屋久島まで世界遺産も多い所です。いつか必ずいきます。