古都京都の文化財

登録年 1994年  登録基準(ⅱ)(ⅳ) 文化遺産

京都府滋賀県

 

 

登録基準

登録基準(ⅱ)

8世紀末(794年)から19世紀中期まで日本の首都が置かれ、政治、経済の中心地であるとともに、各時代の文化を牽引。12世紀までの神社や寺院の「和様」や16世紀末から17世紀初頭の装飾の多い「桃山様式」などの建築様式は各地に伝えられた。「浄土庭園」や「枯山水」などの庭園様式も同様。京都の都市構造は都市建築のモデルにされ、「小京都」と呼ばれる都市が各地に築かれる。建築や庭園、都市計画などの発展に大きな影響を与えた。

 

登録基準(ⅳ)

登録された17の構成資産は、日本における各時代の建築様式や庭園様式の代表であり、歴史を伝える重要な史料。それぞれの建築や庭園、周囲の自然環境が融合した景観は、日本独自の精神性や文化を示す。

 

構成資産【資産からわかる時代】

東、北、西を豊かな緑の山で囲まれた盆地にあり、平安京から1,000年以上にわたり日本の首都として栄えた。長い歴史の中で焼失や再建を繰り返しながらも創建当初に近い姿で保存されている。

 

賀茂別雷神社(通称:上賀茂神社)【平安時代

7世紀末創建。賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと:たまよりひめの子で、京都全域の守り神)を祭神とする。背後の神山も含む。

上賀茂神社の絶景|ZEKKEI Japan

上賀茂神社の絶景|ZEKKEI Japan

賀茂御祖神社(通称:下鴨神社)【平安時代

8世紀中ごろ賀茂別雷神社から分立。流造本殿の代表。糺(ただす)の森も含む。

下鴨神社[賀茂御祖神社]|そうだ 京都、行こう。

https://souda-kyoto.jp/guide/spot/shimogamojinja.html

 

教王護国寺(通称:東寺)【平安時代

796年造営の羅城門の東西に建立された官寺の1つ。

世界遺産「東寺」の隠れた見どころをチェック!|そうだ 京都、行こう。

https://souda-kyoto.jp/blog/00279.html

清水寺平安時代、江戸時代】

778年に僧の延鎮が創建した私寺が起源。懸造の本堂は坂上田村麻呂が建立。

 

延暦寺平安時代

天台宗を開いた最澄が788年に建立。日本の仏教各派を開いた多くの高僧が学んだ。

比叡山延暦寺観光 貸切タクシー2.5時間コース|大津発着 - KKday

比叡山延暦寺観光 貸切タクシー2.5時間コース|大津発着 - KKday

醍醐寺平安時代桃山時代

874年から山上伽藍が、904年から平地伽藍が整備。15世紀の戦乱で焼失もその後、再建。

京都で一番の桜の名所の醍醐寺!花の醍醐以外の魅力も紹介! | 京都府 ...

https://www.travel.co.jp/guide/article/3565/

仁和寺平安時代、江戸時代】

888年宇多天皇により完成した勅願寺明治維新まで皇子、皇孫が門跡を務める。

仁和寺│観光・旅行ガイド - ぐるたび

仁和寺│観光・旅行ガイド - ぐるたび

平等院平安時代

貴族の別荘を、1052年に藤原頼通が寺院へと改修。1053年阿弥陀堂鳳凰堂)が建立。

 

宇治上神社平安時代

平等院鳳凰堂完成後に、鎮守社として整備。現存する最古の神社本殿建築。

宇治上神社 - Wikipedia

宇治上神社 - Wikipedia

高山寺鎌倉時代

774年に創建された寺院が1206年に明恵上人によって整備、高山寺と改称。石水院のみ現存。

高山寺(こうざんじ) | 観光スポット&お店情報 | 昭和の町・豊後高田 ...

高山寺(こうざんじ) | 観光スポット&お店情報 | 昭和の町・豊後高田市公式観光サイト

西芳寺室町時代

1339年夢窓疎石禅宗寺院として復興。庭園は日本庭園史上重要な位置を占める。

境内案内|西芳寺(苔寺)

境内案内|西芳寺(苔寺)

天龍寺室町時代

嵐山を背景に1255年に造営された離宮を1339年に禅寺に改築。三門、仏殿、法堂、方丈が一直線上に並ぶ。

世界遺産|京都 嵯峨嵐山 臨済宗大本山 天龍寺 公式ホームページ

世界遺産|京都 嵯峨嵐山 臨済宗大本山 天龍寺 公式ホームページ

鹿苑寺(通称:金閣寺)【室町時代

足利義満の死後、夢窓疎石が禅寺として開山。庭園の舎利殿は1955年に再建。

慈照寺(通称:銀閣寺)【室町時代

足利義政の死後、禅寺となった。庭園は1615年の改築で盛り砂の銀沙灘と向月台が加えられた。

龍安寺室町時代

1450年に細川勝元が貴族の別邸を禅寺として開山。枯山水の方丈庭園は世界的に有名。

龍安寺 石庭-【世界遺産】実は15石を同時に眺められる石庭だった ...

龍安寺 石庭-【世界遺産】実は15石を同時に眺められる石庭だった(京都府)| 庭園ガイド

本願寺桃山時代

大坂にあった浄土真宗本願寺派の本山が、1591年に京都に移された。唐門や飛雲閣などが残る。

東本願寺とは | 東本願寺

東本願寺とは | 東本願寺

二条城【桃山時代

1603年の徳川幕府京都御所の守護と将軍洛時の宿泊所として造営。二の丸庭園は池泉回遊式。

 

歴史

中国の唐の都城を規範に、桓武天皇が794年に平城京を築いて以降、約400年、貴族文化の中心地として国風文化が開花。平安京当初の資産として、国家鎮護の宗教施設である「賀茂別雷神社」や「賀茂御祖神社」、平安京の鬼門に位置し後に国家鎮護の道場よして栄えた「延暦寺」などがある。

平安時代前期から後期にかけて、東西の2つの官寺以外は平安京内での寺院建立が禁じられ、市中が都市的機能の場となった一方で、周囲の山中に寺院や貴族の別荘が建てられた。平安時代末期になると、貴族政治の衰退、武士の台頭に社会は混乱、末法思想も重なり、阿弥陀仏の救いによって極楽浄土の導きを願うようになる。その時代に「平等院」や「宇治神神社」が完成する。1185年の内乱を経て、鎌倉に政権が誕生。しかし、京都の朝廷貴族の権威は維持されていて、公家文化や武家文化、仏教文化が影響し合っていた。その時代代表するのが、鎌倉時代の建築様式を伝える「高山寺」である。

1338年に室町幕府が成立し京都に政権の中心が戻ると、足利義満の山荘(後の「金閣寺」)に象徴される武家の権威を示しつつ公家文化を取り入れ、そこに禅宗を通した中国文化を融合した北山文化が栄えた。15世紀中ごろには、その融合をさらに深化・洗練させた足利義政の山荘(後の「銀閣寺」)に象徴される東山文化が栄えた。

1467年から10年にわたり応仁の乱によって、京都は都市としての形を失うほどの被害を受ける。しかし、時の権力者や町衆と呼ばれる有力市民の手で再建・保護されてきた。戦乱の世を経て、織田信長豊臣秀吉の天下統一、徳川家康江戸幕府の誕生により、政治が安定、都市では商工業が栄え武将や豪商を中心とする桃山文化と呼ばれる豪壮華麗な文化が開花。この時代は秀吉自らが設計を計った「醍醐寺」の三宝院の殿堂や庭園、豪華な書院建築の「本願寺」、二の丸御殿の残る「二条城」がある。

江戸時代になると「清水寺」や「仁和寺」などが伝統的な建築様式を用いて再建。

明治時代以降は、1897年の古社寺保存法や、1929年の国宝保存法などで保護され、1950年以降は文化財保護法で保護されてきた。

 

過去問にチャレンジ!!!

2017年12月1級問題

【問40】

大政奉還」が行われた『古都京都の文化財』の「二条城」の説明として、正しいものはどれか。

徳川家光が上洛寺の宿泊所として造営した

②18世紀に大部分が焼失し、現存するのは本丸御殿のみである

成就院庭園は借景式庭園の代表例のひとつとされる

④池泉回遊式の二の丸御殿が特別名勝に指定されている

 

解答 正解は④

①造営したのは徳川家康である。天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として築城

②現存するのは本丸御殿と二の丸御殿。特に二の丸御殿は国宝に指定されており、現存する唯一の城郭御殿。

成就院庭園は清水寺

 

 

2016年7月1級問題

【問56】

古都京都の文化財』の構成資産である二条城に残る二の丸庭園は特別名勝に指定されている。その庭園様式として、正しいものはどれか。

①池泉(ちせん)回遊式庭園

枯山水

③浄土庭園

④書院式庭園

 

解答 正解は①

二の丸御殿は池泉回遊式の代表。

池泉回遊式は大きな池を中心に配し、その周囲に園路を巡らし、築山、池中に設けた小島、橋、名石などで各地の景勝を再現。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

紀伊山地の霊場と参詣道

登録年 2004年/2016年範囲拡大 登録基準(ⅱ)(ⅲ)(ⅳ)(ⅵ)文化遺産

和歌山県奈良県三重県

 

 

登録基準

登録基準(ⅱ)

空海によって創建された「高野山」には、多くの仏教建築が残り、「吉野・大峯」と「熊野三山」には、「神仏習合」の宗教観に基づいて築かれた仏教寺院建築群と独特の神社建築が残る。山岳景観とともに、文化的景観を形成し、日本各地へ伝えられ、それぞれの霊場形成のモデルとなった。

 

登録基準(ⅲ)

各社寺の境内や参詣道には、今はない木造及び石造りの建造物や宗教儀礼に関する豊富な考古学的文化財が残されている。今なお参詣者による宗教儀礼が行われるなど、宗教文化の重要な継承の場となる。

 

登録基準(ⅳ)

多くの仏教建築や「熊野三山」などの神社建築は、木造宗教建築の代表例。歴史上、芸術上の建築的価値が高い。近世以降、徳川幕府の諸大名によって高野山奥院に築かれた石塔婆は、規模や様式の多様性の点において重要であり、日本独自の石造廟様式の変遷を示す顕著な例。

 

登録基準(ⅵ)

建造物や遺跡は、神道と仏教、その融合の過程で生み出された「修験道」など、日本独自の信仰形態の特質を表す顕著な例。

 

構成資産

紀伊山地に点在する「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」の3つの霊場と、それぞれを結ぶ参詣道で構成。1,000~2,000m級の山脈が連なる紀伊山地は、多雨地帯であり、豊かな森林がある。古くから「神の宿る場所」として崇められ、山や森、川、滝などを神格化する日本古来の自然信仰を育む土壌となっていた。中国から仏教や道教が伝来すると、「神仏習合」、「浄土教」、「修験道」など信仰の聖地となる。そのため起源も内容も異なる3つの霊場と、参詣道が整備され、多くの参拝者が訪れるようになった。日本で初めての文化的景観が認められた。

吉野・大峯

水を支配し、金などの鉱物資源を産出する山として崇められた金峯山を中心とする「吉野」と、その南に連なる修験道の修行の場である「大峯」で構成される紀伊山地最北部の霊場

吉野山 青根ヶ峰を頂点とした山稜一帯。「千本桜」が有名

金峯山寺(きんぷせんじ) 7世紀役行者が開山したとされる修験道の根本道場

大峯山寺 標高1,719mの山上ヶ岳の山頂に立つ修験道の聖地

吉野水分神社 水をつかさどる天水分命などをまつる。現在の社殿は豊臣秀吉が再建

・吉水神社 源義経後醍醐天皇ゆかりの古寺。神仏分離令で神社に

金峯神社 金など鉱物信仰が起源で、吉野山の最奥に建つ。祭神は金山毘古神

吉野/観光情報&地図 ☆-奈良県吉野の観光情報&地図-☆

吉野/観光情報&地図 ★-奈良県吉野の観光情報&地図-★

 

熊野三山

紀伊山地の南東に、20~40kmを隔てて点在する「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の総称。10世紀、神仏習合の広まりで、互いの主祭神を合祀し、「熊野三所権現」として信仰を集める。

熊野本宮大社 かつては「熊野坐(にます)神社」と呼ばれ、起源は古代

・熊野速玉大社 原始信仰を受け継ぐ祭礼「熊野お灯祭り」で知られる

熊野那智大社 那智大滝に対する自然信仰を起源

那智大滝 133mの滝で、古代より神が宿るとして信仰

青岸渡寺 5世紀にインドから熊野に漂着した僧によって開山したと伝わる

・補陀洛山寺 小舟で観音浄土を目指す「補陀洛渡海」ゆかりの寺

那智原始林 約33万㎡の森林

熊野古道の見どころ|熊野古道・熊野三山ツアー・旅行│クラブツーリズム

熊野古道の見どころ|熊野古道・熊野三山ツアー・旅行│クラブツーリズム

 

高野山

金剛峰寺を中心とする「真言密教」の霊場。建築物群は、標高800mの山上にある約3k㎡の平地にあり、「八葉の峰」とも呼ばれる。本堂と多宝塔を組み合わせた伽藍配置は、真言宗寺院のモデル。かつて高野山は女人禁制であり、参詣する女性はふもとの慈尊院を詣でた。

・金剛峰寺 816年に空海によって開山、高野山真言宗の総本山

・丹生都比売神社 高野山一帯の地主神をまつる神社。金剛峰寺の鎮守神

慈尊院 空海の母ゆかりの寺院

 

参詣道

大峯奥駈道(おくがけみち)」、「熊野参詣道」、「高野参詣道」の3つ。

大峯奥駈道 吉野・大峯と熊野三山を結ぶ約120kmの山道

・熊野参詣道 奈良、京都など各都市から、熊野三山へ至る参詣道の総称

・高野参詣道 慈尊院を起点に奥の院へ至る道。

世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のすべて - 世界遺産 紀伊産地の ...

世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のすべて - 世界遺産 紀伊産地の霊場と参詣道 | わかやま文化財ガイド

熊野参詣道には紀伊路伊勢路小辺路(こへち)、中辺路(なかへち)、大辺路(おおへち)がある。

・中辺路:平安貴族公式のルート

田辺市から中辺路と大辺路の2本に分かれ、中辺路は田辺市から東に進み、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社につながる。奥深い緑の自然豊かな紀伊山地の山々を越えていく道で平安から鎌倉にかけて皇族や貴族の公式参詣道として一番利用された道

 

大辺路紀伊半島を南下する海沿いの道

田辺市を南下し、そのまま紀伊半島に沿って那智勝浦町に至る道。大辺路は本州最南端の串本町も通り、大小様々な岩柱が見渡せる。冨田川の山王橋が有名。

 

小辺路:山越えが必要なルート

北の高野山と南の熊野本宮大社の二大聖地を最短距離で結ぶルート。約70kmの間には、1,000m級の山々が連なる。

 

伊勢路紀伊半島の東側を通るルート

伊勢神宮熊野三山を結ぶ参詣道。江戸時代には「伊勢に七度(ななたび)、熊野へ三度(さんど)」と表現されるほど、庶民にとって2ヵ所を参拝することは憧れだった

 

紀伊路:大阪から和歌山西部をつなぐ南北道

大阪から南下し、和歌山県西部の田辺市まで南北にのびた道

 

歴史

7世紀後半、仏教が国家を鎮護する宗教になると、自然信仰の神域とされていた紀伊山地では、山岳信仰が盛んに行われるようになった。

816年、空海が「金剛峰寺」を創建、真言密教の修行場として定着。

9~10世紀、「神仏習合」の思想が広まり、「熊野三山」などを中心に建造物が建立。道教の神仙思想と日本の山岳信仰が融合、独自の宗教である「修験道」が成立。その中心が吉野・大峯であり、多くの修験者が集まるようになった。

11世紀、「浄土教」の流行で、死後の成仏を願う皇族や貴族、有力武士により、多くの寺社が建立。参拝に訪れ、次第に各霊場や参詣道が整備されていく。

 

過去問にチャレンジ!!!

2017年7月1級問題

【問84】

紀伊山地の霊場と参詣道』の高野山にある「金剛峰寺」に関する以下の文中の空欄に当てはまる語句として、正しいものはどれか

高野山は金剛峰寺を中心とする真言密教霊場で、(  )を組み合わせた金剛峰寺の伽藍配置は、全国の真言宗寺院のモデルとなった。

①本堂と多宝塔  ②本堂と三重塔  ③薬師堂と経蔵  ④薬師堂と回廊

 

解答 答えは①

高野山 壇上伽藍「根本大塔(多宝塔)」 | 高野山-御朱印

高野山 壇上伽藍「根本大塔(多宝塔)」 | 高野山-御朱印

 

2017年12月1級問題

【問45】

紀伊山地の霊場と参詣道』の「吉野・大峯」にある「金峰山」の説明として、正しいものはどれか

①年間降水量が5,000mmを超える多雨地帯である

②かつては女人禁制であり女性はふもとの慈尊院を詣でた

③水を支配し、金などの鉱物資源を産出する山として崇められた

④山上にある約3k㎡の平地には金剛峰寺がたつ

 

解答 答えは③

①年間降水量は3,000mmを超える多雨地帯

②女人禁制は高野山で、唯一慈尊院が女性参拝を許された

④金剛峰寺がたつのは高野山

 

2016年7月1級問題

【問75】

紀伊山地の霊場と参詣道』に関する次の文中の語句のうち、正しくないものはどれか

紀伊山地の霊場と参詣道』は、(①空海)によって創建された(②真言密教)の霊場である「高野山」と、その修験道霊場である「吉野・大峯」、神仏習合の思想に基づいて作られた「熊野三山」、そしてそれらをつなぐ「参詣道」からなる。「(③吉野・大台ヶ原)」はユネスコの(④生物圏保存地域)にも指定されているが、これは修験道霊場としたことで木々の伐採が禁じられたことと関係している。

 

解答 答えは③

大峯:大台ヶ原大峯山として生物圏保存地域に指定されている。

 

2017年12月1級問題

【問49】

紀伊山地の霊場と参詣道』の「吉野・大峯」に含まれる「大峯」は、「大台ヶ原大峯山」として生物圏保存地域に指定されている。文化遺産でありながらそうした自然環境が残された理由として考えられるものはどれか

①14世紀の南北朝時代南朝の拠点が置かれ、天皇の行在所として一般人の入山が禁止されたため

役行者が桜の木に蔵王権現を彫り込んだという言い伝えにより、桜の木の伐採が禁止されたため

③1872年の修験道廃止令により、この地域での全ての宗教活動が禁止され、自然環境に人の手が入らなくなったため

修験道霊場として木々の伐採が禁止され、自然林の植生が良好に保たれたため

 

解答 答えは④

 

宿泊

里創人 熊野倶楽部

 

 

 

 

 

 

 

 

 

古都奈良の文化財

登録年 1998年  登録基準(ⅱ)(ⅲ)(ⅳ)(ⅵ)文化遺産

奈良県

 

登録基準

●登録基準(ⅱ)

8世紀、中国や朝鮮半島から伝えられ、日本独自に発展した仏教建造物群は、高度な文化的、芸術的水準を有していたことを物語り、文化的交流の歴史を示す。中国や韓国では、同年代の木造建築の大部分が失われており、価値が極めて高い。

 

●登録基準(ⅲ)

古代都城を構成する資産群。710年から784年までの約74年間の都であり、「平城京跡」は、考古学的遺跡としての価値も高い。現在の奈良市は、平城京の中心から離れた場所で発展したため、当時のままの地下遺構が良好な状態で残っている。

 

●登録基準(ⅳ)

各寺院、神社からは、宗教の影響下で津令制が日本全国に定着。そして、寺院や神社の力が社会的、政治的に大きくなっていった様子がわかる。奈良時代の建築様式を留めており貴重。

 

●登録基準(ⅵ)

建物が神道や仏教などの宗教的空間の顕著な特徴を示す。春日山原始林は、自然の山や森を神格化しようとした日本独特の神道思想。現在でも、宗教儀式や行事が盛んに行われており、宗教文化を継承している点も重要。

 

構成資産

元興寺興福寺薬師寺春日大社春日山原始林、平城京跡、唐招提寺東大寺

8資産で構成

奈良の世界遺産一覧 見どころまとめ | ユニセックス

奈良の世界遺産一覧 見どころまとめ | ユニセックス

(1)元興寺(がんごうじ)

6世紀に蘇我馬子が建立した「飛鳥寺」が起源。8世紀に平城京に移築。

元興寺 - Wikipedia

蘇我馬子が建立したとされる飛鳥寺は、日本最古の寺院。かつては南都七大寺の1つで広大な寺院だったが、現在は僧坊遺構の極楽堂と禅室を残すのみ。

 

(2)興福寺

遷都に伴い、山階(現・京都市山科区)から飛鳥を経由し移築された669年創建の寺院を起源。710年、藤原不比等によって移築された後は、藤原氏の氏寺として、大いに繁栄。

興福寺|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|奈良市 ... f:id:kitanoatuo:20210329133947p:plain

法相宗大本山。前身である山階寺(やまなしでら)は669年に藤原鎌足が重い病気を患った際、夫人である鏡女王が、夫の回復を祈願し造営したと伝えられ、壬申の乱(672年)の後、飛鳥に都が戻り、地名をとって「厩坂寺」と名付けられ、710年の遷都とともに興福寺に名付けられる。

 

日本国内の国宝の仏像の15%を興福寺が所蔵しており、まさに国宝の宝庫。その大半が国宝館に安置。その中でも人気なのは「阿修羅像」。3つの顔に6つの手といえば容易に想像がつくでしょう。幼年期、思春期、青年期の顔という事で微妙に表情も違うよう。

 

(3)薬師寺

680年に天武天皇によって建立。718年に藤原京から平城京に移築。「薬師寺伽藍配置」で知られる。火災や台風により、現在は東塔のみ残っている。

f:id:kitanoatuo:20210324110818p:plain

金堂前面の東西に白鳳文化の代表例とされる三重塔が立つのが薬師寺伽藍の特徴。

 

(4)春日大社

藤原氏氏神をまつる神社。藤原氏や朝廷の崇敬を受け繁栄。平安時代後期に興福寺と一体化されたが、明治の「神仏分離令」で再び分けられた。本殿は春日造りで、春日神(たけみかづちのみこと、ふつぬしのみこと、あめのこやねのみこと、ひめがみ)と称される4柱が4棟に分かれて祀られている。

※春日造

流造に次いで普及。奈良を中心に近畿圏に多い。妻側の中央に入り口を持ち、妻側に向拝を設けている。

神社.com|神社のあれこれ 豆知識 | 建築, 日本家屋 間取り, 建築様式

神社.com|神社のあれこれ 豆知識 | 建築, 日本家屋 間取り, 建築様式

 

(5)春日山原始林

春日大社の社殿周辺から御蓋山三笠山)、春日山にかけては聖域とされ、841年に狩猟と伐採が禁止。以降は神山として守られてきた。山中の水源には、水神・雷神がまつられ都の守護神とされていた。

 

(6)平城京

 1955年から発掘調査が始まり、建物の配置や変遷、役所名などの律令組織、行政や生活の実態が明らかになっている。

(7)唐招提寺

759年に鑑真が創建。律宗の総本山。

鑑真(688~763年)唐の揚州で生まれ、14歳で出家。遣唐使で唐を訪れていた留学僧から朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。12年間に5回の渡航を試みて失敗、、753年6回目の渡航で遂に成功。66歳。

その後、渡日してからの10年を東大寺で5年、唐招提寺で5年過ごす。

金堂 | 伽藍と名宝 | 唐招提寺

金堂 | 伽藍と名宝 | 唐招提寺

 

 

(8)東大寺

華厳宗大本山。南大門、法華堂、鐘楼、金堂(大仏殿)、銅造蘆舎那仏坐像、開山堂、転害門、本坊経庫、正倉院正倉が国宝。

 東大寺 - Wikipedia

東大寺 - Wikipedia

聖武天皇が建立。皇太子供養のために建立した金鐘寺が東大寺の始まり。

 

歴史

708年、元明天皇平城京を造営。

710年に遷都。政治、経済、文化の中心となる。

718年に元興寺薬師寺が旧都である飛鳥藤原地方から移築される。

720年頃には興福寺の建造。

745年には、東大寺の建造。さらに745年、唐から鑑真が来日。

759年には唐招提寺の建立が始まる。

768年、春日大社の創建。

平安京に遷都した後も朝廷の保護下のもと造営工事も継続して行われる。平安時代末の1180年、内乱により、東大寺興福寺では、伽藍の多くが焼失。室町時代入ると奈良の神社の多くは衰退。明治維新後の近代化のもと、国内の文化財軽視の風潮は奈良の建造物群にも及ぶが、その後、様々な法が制定され保護されるようになる。

 

過去問にチャレンジ!!!

2017年7月1級問題

【問83】

古都奈良の文化財』に含まれる構成資産で、次の3つの説明文から推測されるものとして、正しいものはどれか。

蘇我馬子が建立した飛鳥寺を起源とする

奈良時代後期には南都七大寺のひとつとして繁栄した

ー極楽坊の本堂の屋根瓦には飛鳥時代の瓦も残されている

興福寺 ②元興寺 ③唐招提寺 ④薬師寺

 

解答 答えは②

①は藤原不比等 ③は鑑真 ④は天武天皇

 

 

2016年7月問題

【問74】

古都奈良の文化財』に含まれる元興寺の説明として正しくないものはどれか

奈良時代後期には、南都(平城京)七大寺のひとつとして繁栄した

②本堂の瓦には、飛鳥時代の瓦も残る

③8世紀に飛鳥寺から移築された

④南に位置する元興寺を丘の上から見下ろすように建っている

 

解答 答えは④

④は興福寺のことを指している。

 

 

2016年12月1級問題

【問65】

下線部(a)「東大寺山界四至図」の説明として正しいものはどれか

正倉院に保管されていた、東大寺の寺域を示した絵図

東大寺大仏の足元の地中から見つかった、東大寺の境内図

③9世紀に東大寺の寺歴を描いた絵巻図

④7世紀の大仏開眼法要で奉納された、平城京の領域を描いた絵図

 

解答 答えは①

東大寺山堺四至図模写本

http://www.nara-wu.ac.jp/aic/gdb/mahoroba/y18/

 

宿泊

奈良 万葉若草の宿 三笠

すぐ眼下には東大寺の大仏殿を望むことができ、奈良市内も見渡せる高台にあるお宿だそう。

 

奈良市内には8か所も世界遺産があるので回るのは大変そう。

お得な切符があるようで、

奈良世界遺産フリーきっぷ<奈良・斑鳩1日or2日コース>

1日コース:大人1500円(小児半額)

2日コース:大人2000円

というのがあるそうです。斑鳩といえば法隆寺があるエリアですので、2日あればしっかり見て回ることができそうですね。

 

 

 

 

法隆寺地域の仏教建造物群

登録年 1993年 登録基準(ⅰ)(ⅱ)(ⅳ)(ⅵ)文化遺産

奈良県

 

 

 登録基準

●登録基準(ⅰ)

法隆寺法起寺に残る木造建造物群は、全体の設計とデザインが素晴らしく、エンタシスを持つ太い柱や、雲形の肘木(ひじき)や斗(ます)などの細部の装飾も優れていて芸術的価値が高い。

※エンタシスとは柱の中央部分を膨らませた形状。ギリシアパルテノン神殿などでも用いられる。

ギリシャ様式|建築様式で楽しむホテル|ホテリスタ

ギリシャ様式|建築様式で楽しむホテル|ホテリスタ

ギリシアといえばこれですねよね。名前を知らなくても見たことはあるって人は多い。

 

●登録基準(ⅱ)

法隆寺地域の仏教建造物は、日本における仏教建造物の最古の例として1300年間の伝統のなかで、それぞれの寺院の発展に影響を及ぼした。

 

●登録基準(ⅳ)

7~8世紀初頭の建造物には6世紀以前の中国建築と共通する様式上の特色が見られる。8世紀の建造物は、唐の様式も見られる。この時期に中国と日本、東アジアにおける密接な建築上の文化交流があったことの証明である。

1つの地域に7世紀から19世紀までの各時代における優れた木造建造物が保存されている例は他に類がない。

 

●登録基準(ⅵ)

仏教はインドから中国朝鮮を経由して6世紀半ばに伝わる。聖徳太子は当時仏教の普及にきわめて熱心で、太子ゆかりの法隆寺は日本の仏教の最も古い時代の建造物を多数保存しており、宗教史の観点からも高い価値がある。

 

構成遺産

法隆寺に属する47棟と法起寺の三重塔1棟の計48棟で構成

法隆寺の西院伽藍の金堂、五重塔、中門、回廊、法起寺三重塔などの8世紀以前に建造された11棟の建物は、現存する世界最古の木造建造物である。

法隆寺西院伽藍は東に金堂、西に五重塔が並び、「法隆寺式伽藍配置」と呼ばれる。金堂や五重塔には、「雲型組物」が用いられている。また、法隆寺中門は、通路となる門の中央部に柱を置く「四間門」である。中門の左右には阿形と吽形の2体の金剛力士像が置かれる。

法隆寺 空撮[01888612311]の写真素材・イラスト素材|アマナイメージズ

 

鏡清澄の部屋 七堂伽藍と伽藍配置の変化

写真の手前に見えるのが中門。そこに2体の金剛力士像がいます。

 

【阿吽の呼吸】と聞くと2人で息を合わせるイメージですね。

口を開いて最初に発せられる音のことを「阿」。口を閉じて最後に発せられる音のことを「吽」という。ここから、「阿吽」は宇宙の始まりと終わりを意味するようになった。後に、「阿」は真実の追求、求道の心、「吽」は智慧、涅槃を表すようになった。また、一対のものを表すようになった。例えば、社寺の本殿の前に置かれる狛犬、仏法の守護神である金剛力士像、仁王像がそうである。更に、「阿吽」は転じて二人の人が息を合わせ共同で活動する意味となった。日本語に、「阿吽の呼吸」という言い方がある。例えば、相撲の取り組みで、二人の力士が立ち会いで息を合わせた後、立ち上がって取り組みが始まる。この、二人が息を合わせるのが「阿吽の呼吸」である。

日本最古の金剛力士像 | 法隆寺, 仏教, 世界遺産

左が(吽形)                 右が(阿形)

日本最古の金剛力士像 | 法隆寺, 仏教, 世界遺産

金剛力士像と言えば、昔の教科書で習いましたし、写真を見て分かる方も多いと思います。では、どっちが阿形(あぎょう)で吽形(うんぎょう)と聞かれてすぐに分かる人は意外に少ないと思います。実際に私も今回、調べて初めて知りました。言葉の意味を理解していくと、どっちがすぐに分かりますね。

 

他にも、世界最古のものはウィキペディアに載ってました。

ただし、あくまでもではないかという建造物が多いのも確かです。当時を生きた人がいる訳ではないので、特定するのはとても難しいことですね。

 

歴史

法隆寺地域における最初の仏教寺院は、607年に推古天皇とその摂政を務めた聖徳太子によって築かれた若草伽藍(斑鳩寺(いかるがでら))である。670年に焼失しているが、遺構は法隆寺境内の地下に残る。現在の西院伽藍の起源は7世紀後半から8世紀初頭に若草伽藍から場所を移して再建された寺院と考えられている。東院伽藍が築かれたのは8世紀前半。聖徳太子没後の739年に、住居だった斑鳩宮跡に聖徳太子の霊をまつるために建設された伽藍(上宮王院(じょうぐう))が起源とされる。

法起寺は、聖徳太子の死後の7世紀に、その子息である山背大兄王(やましろのおおえのおう)が、聖徳太子の宮であった宮本宮跡に建立した寺を起源。16世紀末の戦乱でほぼ焼失、高さ24mの三重塔が残るのみ。

三塔いにしえの道-法隆寺iセンター・斑鳩町観光協会

三塔いにしえの道-法隆寺iセンター・斑鳩町観光協会

法隆寺法起寺は場所で見ると少し離れた所に位置している。

 

法隆寺をはじめこの地域の寺院は、「鎮護国家の寺」として、天皇家に手厚く保護された。12世紀になると、一般人にも「聖徳太子信仰」が始まり、法隆寺をはじめ多くの信者が訪れた。各時代の権力者のもとで保護されてきたが、明治維新を迎えると神道を重んじ仏教を排除する思想のもとで次第に荒廃。しかし、1897年、明治政府のもとで「古社寺保存法」の制定されると再び保存されるようになった。

 

過去問にチャレンジ!!!

2017年7月1級問題

【問68】

法隆寺地域の仏教建造物群の法隆寺西院伽藍の中門に見られる「四間門(しけんもん)」の特徴として、正しいものはどれか

①四本の柱で囲まれた門である

②僧職に就く者だけがくぐることを許されている

③横幅が四間ある石門である

④門の中央部に柱が置かれている

 

解答 答えは④

法隆寺中門と金堂 | 毘沙門天の世界

中央に門、左右に金剛力士像が立っているのが分かります。

 

2017年12月1級問題

【問80】

法隆寺地域の仏教建築物群の説明として正しいものはどれか

①アーネスト・フェノロサ岡倉天心が開示を要求したことで、秘仏であった釈迦三尊像の姿が明らかになった

法隆寺西院に残る「夢殿」は、現存する最古の八角円堂である

法隆寺で行われてきた木造文化の保存・修復の歴史が「奈良文書」の採択に影響を与えた

明治維新以降の廃仏き釈(はいぶつきしゃく)のなかで法隆寺も廃寺となっていたが、世界遺産登録に向けて保存活動の中で再興した

 

解答 答え③

世界遺産における真正性という考え方は、当初、石の文化の建造物のように当時のものがそのまま残っていることが重視されていたため、木や土の文化においてはその建造物の真正性が認められにくかった。日本政府は、木の文化における保存・修復の歴史を説明し、それが「真正性における奈良会議」につながった。採択には、「法隆寺地域の木造建築物群」で行われてきた木造文化の修復の歴史が大きく影響している。

 

①の開示要求は、夢殿の本尊「救世観音菩薩像」である。聖徳太子の等身と伝えられる。

夢殿秘仏・救世観音菩薩立像|法隆寺|斑鳩町|生駒・信貴・斑鳩・葛城 ...

夢殿秘仏・救世観音菩薩立像|法隆寺|斑鳩町|生駒・信貴・斑鳩・葛城エリア|秘宝・秘仏 特別開帳|祈りの回廊 [奈良県 秘宝・秘仏特別開帳]

 

②夢殿があるのは東院伽藍。現存する最古の八角円堂である。

 

2016年7月1級問題

【問79】

法隆寺地域の仏教建造物群の西院の金堂に安置されている象として正しいものはどれか

釈迦三尊像

②救世観音菩薩

弥勒菩薩半か思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)

不空成就如来

 

解答 答えは①

法隆寺・(金堂)釈迦三尊像「釈迦如来と文殊菩薩?普賢菩薩 ...

法隆寺・(金堂)釈迦三尊像「釈迦如来と文殊菩薩?普賢菩薩??」 | 法隆寺-御朱印

②は法隆寺の東院、夢殿

③は京都府広隆寺

 

2016年12月1級問題

【問48】

法隆寺地域の仏教建造物群の説明として、正しいものはどれか

①7~8世紀初頭にかけて築かれた建造物からは、6世紀以前の中国建築と共通する様式上の特色がみられる

法隆寺法起寺はかつてひとつの寺院であったが、12世紀の聖徳太子信仰のなかで別の寺院として分けられた

③西院本堂にある救世観音立像からは北魏時代の中国文化の影響がうかがえる

法隆寺をはじめとする寺院は、「鎮護国家の寺」として古くより天皇家によって手厚く保護されており、現在は宮内庁の管轄下におかれている

 

解答 答えは①

③は釈迦三尊像のこと。釈迦三尊像のアルカイク・スマイル(古式の微笑み)などに北魏時代(6世紀)の中国文化の影響がうかがえる。

④は宮内庁ではなく、国家の保護下にある。

 宿泊

門前宿 和空 法隆寺

法隆寺の参道にあり、法隆寺から最も近いお宿だそう。懐石料理は神田川敏郎さんの監修。雰囲気も素晴らしく、子供が大きくなったら夫婦で行きたいですね。

楽天トラベル  法隆寺】で検索

 

参考文献

世界遺産大事典<上>

世界遺産の基礎知識、日本の世界遺産、アジアの世界遺産、アフリカの世界遺産オセアニア世界遺産を網羅。ブログを書いていく上で参考にさせてもらっています。読むだけで、今まで知らなかったことがどんどんわかって楽しくなるのでぜひ読んでほしいです。

 

 

 

 

 

 

 

『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群

登録年2017年 登録基準(ⅱ)(ⅲ) 文化遺産

福岡県

 登録基準

●登録基準(ⅱ)

沖ノ島の神を東アジアにおける対外交流の航路の守り神としたため、当時の先進技術で作られた奉献品を使い古代祭祀が行われた。4世紀後半から9世紀末の約500年の祭祀の変遷を伝える考古遺跡がほぼ手つかずで残っている。

 

●登録基準(ⅲ)

沖ノ島は1500年以上にわたり信仰の対象となってきた。今も入島を制限している。沖ノ島、大島、九州本土の宗像大社三宮では、宗像三女神の信仰が生まれ現在に伝えられる。

構成資産

沖ノ島」「宗像大社」「古墳群」の3つの要素で構成される8資産からなる。3つの要素が一体となり、宗像・沖ノ島の信仰の歴史を証明。

 

(1)沖ノ島

九州本土から60㎞の玄界灘海上に位置。日本列島から朝鮮半島や中国大陸へ向かう航海上の目印になる島。島全体が自然崇拝の信仰を集め、海の航海の安全を祈る場所となった。4世紀はヤマト政権と朝鮮半島百済の結びつきが強い時期。

【岩上祭祀】巨岩の上で祭祀

  ↓

【岩陰祭祀】

  ↓

【半岩陰・半露天祭祀】

  ↓

【露天祭祀】平らな場所での祭祀

時代と共に祭祀の形態が変化していった証拠が残されている。それぞれの場所で約8万点もの各時代の貴重な奉献品が発見され、その全てが国宝に指定されている。

 

 

(2)宗像大社

自然崇拝から始まった沖ノ島の信仰が、宗像三女神という人格を持った神に対する信仰へと発展。その両者が共存しながら宗像・沖ノ島の信仰を作ったことを証明。

また、露天祭祀から社殿を持つ祭祀へと発展しあことも示す。8世紀の古事記や日本書記にも名前が残っており、歴史は古い。

 

宗像大社沖津宮

①「沖ノ島」とそれに付随する岩礁②「小屋島」と③「御門柱」、④「天狗岩」からなる信仰の場。3つの岩礁が物理的に離れているため個別の構成資産として区別 されている。しかしかし、価値の観点から沖津宮という1つの神社を構成している。宗像三女神田心姫命(たごりひめのかみ)が祀られている。

 

宗像大社沖津宮遥拝所

⑤遥拝所は沖ノ島から約48km離れた大島にある信仰の場。通常は渡ることのできない沖ノ島を遠くから拝むため、宗像大社の一部として設けられる。晴れていれば沖ノ島を望むことができる。

 

宗像大社中津宮

中津宮宗像三女神のうち、たぎ津姫命(たぎつひめのかみ)が祀られる。遥拝所と同様に大島にある。

 

宗像大社辺津宮

辺津宮は三女神のうち市杵島姫命(いちきしまひめのかみ)が祀られている。現在の宗像大社の神事の中心。

 

新原・奴山(しんばる・ぬやま)古墳群

⑧古墳群は宗像氏の墳墓群。

 

 

(3)古墳群

沖ノ島を信仰する伝統を継承した宗像氏の墳墓群。海を望む台地上に5世紀から6世紀にわたり41基の大小様々な墳墓が一体的に築かれている。

 

宗像氏

大国主神の6世孫、あるいは三女神の7世孫の吾田片隅命の子孫と伝わるが不明が多い。

海洋豪族として玄界灘全域にわたる膨大な海域を支配。914年頃までは胸形、宗形、胸肩氏などと表記。

 

歴史

3世紀頃、日本の中央にヤマト王権が誕生。4世紀頃になると、朝鮮半島百済と友好関係を結び、鉄資源や技術、文化を入手。その勢いを強大化させていく。そのヤマト王権が対外交流を行うためには、海を越える航海術を持つ宗像氏の協力が不可欠であった。

宗像氏は航海の道標となる沖ノ島を信仰しており、ヤマト王権沖ノ島で祭祀を行うようになった。宗像氏もまた、ヤマト王権に協力することで勢力を拡大。

その後も、中国大陸への遣隋使、遣唐使などの派遣。9世紀に至るまで、文化や法制度を手に入れるため遣唐使朝鮮半島新羅への派遣は続いた。

 

過去問にチャレンジ!!

2017年7月1級検定

【問88】

神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群に対して2017年5月に出された勧告内容として、正しいものはどれか。

①構成資産のうち4資産にのみ登録を勧告する

②遺産名を「沖ノ島宗像大社」として登録を勧告する

風力発電施設の建設中止を含む保全計画の再提出を求め情報照会を勧告する

④登録基準(ⅲ)の再証明を求め情報照会を韓国する

 

解答 答えは①

ICOMOSの事前勧告では、沖ノ島と小屋島、御門柱、天狗岩の4資産にのみ「登録」勧告が出された。世界遺産委員会では、日本の主張した三社一体の信仰が評価され、8資産全体での登録となる。基準は(ⅱ)、(ⅲ)のみ認められ、(ⅵ)は認められなかった。

 

2017年12月1級検定

【問3】

神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群で認められた登録基準として、正しいものはどれか。

①登録基準(ⅱ)と(ⅲ)

②登録基準(ⅰ)と(ⅱ)

③登録基準(ⅰ)と(ⅴ)

④登録基準(ⅳ)と(ⅵ)

 

解答 答えは①

 

宿泊

御宿 はなわらび

宗像で調べると自慢は海鮮のようです。どこのホテルも美味しそうな食事がある中で、庭園のような立派な庭もありいいですね。宗像大社辺津宮も近そうですし、海も眺めることができる。

博多から、宗像は30㎞ほどという事で、福岡観光し宗像へ足をのばすのもいいですね。まだ、九州には一度も行ったことがありません。九州だけで見ても、宗像以外にも長崎キリスタンや明治日本の産業遺産、屋久島まで世界遺産も多い所です。いつか必ずいきます。

 

 

 

 

百舌鳥・古市古墳群

登録年 2019年 登録基準  (ⅲ)(ⅳ) 文化遺産

大阪府

 登録基準

●登録基準(ⅲ)

古墳時代においては、社会階層の違いを示す高度に体系化された埋葬文化があった。百舌鳥・古市は日本列島の各地で築かれた古墳群が形作る階層構造の頂点にあり、最も充実した典型的な階層構造は他の古墳の見本となっている。

 

●登録基準(ⅳ)

集団や社会の力を誇示するモニュメントとして祖先の墓を築き社会階層を形成した、日本独自の歴史段階を示す。

この地に密集して築かれた古墳は、世界各地の墳墓に見られるような埋葬施設の上に盛土や積石をしただけの単純な墳墓ではなく、埋葬儀礼の舞台としてデザインされている。埴輪と葺石で装飾され、濠が張り巡らされ、幾何学的な段築を持つなど、他に類例のない独自の建築的到達点。

 

構成資産

百舌鳥エリア(大阪府堺市)にある「仁徳天皇陵古墳」や、古市エリア(大阪府藤井寺市羽曳野市)にある「応神天皇陵古墳」など、45件49基の古墳で構成。

仁徳天皇陵のような大きな古墳には、陪ちょう(陪塚)と呼ばれる小型の古墳があるので、

構成資産数≠古墳数となっている。

日本最大の仁徳天皇陵古墳があることに加え、「前方後円墳」「帆立貝形墳」「円墳」「方墳」という日本各地にある標準的な形式4つを含んでいる点が特徴。

仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)

日本最大の前方後円墳古代エジプトクフ王のピラミッド、中国の始皇帝陵と並び、世界三大墳墓の1つに数えられる。

仁徳天皇⇒第16代天皇

応神天皇陵古墳(誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳

日本第2位の前方後円墳

応神天皇⇒第15代天皇

履中天皇陵古墳(ミサンザイ古墳)

日本第3位の前方後円墳

履中天皇⇒第17代天皇

仲哀天皇陵古墳

室町時代には城として利用され、墳丘の一部は形が違う。

仲哀天皇⇒第14代天皇応神天皇の父。

仁徳天皇陵(大阪府・堺市・堺区・大仙町) : エナガ先生の講義メモ

エナガ先生の講義メモ : 仁徳天皇陵(大阪府・堺市・堺区・大仙町)

 

前方後円墳

仁徳天皇陵古墳 | OSAKA-INFO

仁徳天皇陵古墳 | OSAKA-INFO

社会科の教科書でよく目にした形ですね。昔は前方後円墳という名前で覚えた記憶がありますが。

◎帆立貝形古墳

孫太夫山古墳 【世界文化遺産 構成資産】

孫太夫山古墳 【世界文化遺産 構成資産】

太夫山(まごだゆうやま)古墳は仁徳天皇陵古墳の南に位置し、陪ちょうと考えられている。

※陪ちょう→陪塚(ばいづか)とも呼ばれ、大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するほか、大型の古墳の埋葬者の副葬品を埋納するためのものともいわれる。

◎円墳

その名の通り、円い古墳であり、一般的な古墳である。

◎方墳

墳丘の平面形が方形になる古墳。

古墳(コフン)とは何? Weblio辞書

古墳(コフン)とは何? Weblio辞書

 

歴史

日本列島では3世紀中頃に最初の前方後円墳が現れ、以後、様々な形と大きさを持つ古墳が各地に多く築かれた。3世紀中頃~6世紀後半に各地で築かれた古墳は16万基以上にのぼり、東北南部から九州南部にかけての約1200㎞の範囲に広がる。この時代を古墳時代と呼ぶ。築造の中心が奈良県大阪府。ここに最も巨大かつ新しい様式を備える前方後円墳が築かれる。政治連合「ヤマト王権」が現れた。

ヤマト王権は強大な権力構造を、東アジアとの海上交易が行われる時代に、東アジアに示す意味があった。『百舌鳥・古市古墳群』は海上交易の窓口である大阪湾を望む台地の上にあり、行き来する船からは、港に対して長辺を向ける巨大古墳がよく見えたと考えられる。

世界遺産】百舌鳥・古市古墳群は世界三大墳墓も世界的には“無名 ...

【世界遺産】百舌鳥・古市古墳群は世界三大墳墓も世界的には“無名”、「分かりやすさ」でアピール 推薦書暫定版をユネスコ提出へ(1/3ページ) - 産経WEST

当時、今のような埋め立て地はほとんどないため、仁徳天皇陵がある百舌鳥エリアに関しては海のそばにあったと考えられる。

 

しかし、東アジアとの交易や文化交流の中で仏教が伝来すると、巨大古墳が作られなくなり、天皇の陵墓を守る役割は寺院に移っていく。

 

※仏教は朝鮮半島百済から伝わる(1つの説)が、ヤマト政権内でも仏教派と反仏教派の対立が激しくなる。仏教派の中心は蘇我氏。反仏教派は物部氏。587年蘇我氏VS物部氏の丁未(ていび)の変で蘇我氏が勝利する。蘇我氏の力が増していくことで古墳づくりから寺院へと関心が変わっていく。ちなみにその蘇我氏側にまだ若かった聖徳太子も参加していたそう。

593年、女性初の天皇である推古天皇(第33代)が即位。その摂政として政治を任されたのが聖徳太子。この辺りは教科書でも習いますね。

そして、聖徳太子といえば法隆寺法隆寺地域も世界遺産ですね。こちらの話はまた別の機会に。こうして時代が移ろいでいくのを学ぶと歴史の面白さが少しずつ感じられます。

 

こうして古墳時代は終わりを告げ、都市開発で古墳は壊され、百舌鳥エリアには44基が残り、うち23基が構成資産に含まれる。古市エリアは45基が残り、そのうち26基が構成資産となる。

 

過去問にチャレンジ!!

最新号を購入したらアップしていきます。

 

宿泊

ホテルアゴーラリージェンシー大阪堺からは街側では仁徳天皇陵古墳や履中天皇陵古墳、海側を見れば大阪湾、遠くには明石海峡や六甲山を見ることができる。

元通りの日常に戻った時、歴史探訪しながら、大阪観光、USJを満喫。そんなことができる日を楽しみにしたいですね。

現在、ホテルでは密を避けたマイカープランなども行っているそう。近場の方にはおススメかも。遠くへの移動はリスクがあるけど、近場でのマイクツーリズムであれば、現実的かもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石見銀山遺跡とその文化的景観

登録年 2007年/2010年範囲変更 登録基準  (ⅱ)(ⅲ)(ⅴ)  文化遺産

島根県

 

 

登録基準

●登録基準(ⅱ)

16~17世紀初頭の大航海時代石見銀山における銀の生産は、アジア及びヨーロッパの貿易国と日本との間における重要な商業的・文化的交流を生み出した。

 

当時、日本産の銀の産出は世界の1/3~1/4を占めたと考えられる。しかし16世紀後半のスペインによる新大陸のポトシ銀山の開発から、現在のボリビアやメキシコ産のメキシコ銀が増大し、スペイン銀貨といわれるようになり、次第に日本銀は衰退。

ボリビアの『ポトシの市街』も世界遺産に登録されているよ。最新のアマルガム法が取り入れられ、17世紀半ばまでの約100年間で、世界の銀産出量の半分を占めた。

 

●登録基準(ⅲ)

小規模な「労働集約型経営」に基づく優れた運営形態の進化をもたらし、採掘から精錬までの一連の技術全体を包括。江戸時代の鎖国は、ヨーロッパの産業革命の技術導入を遅らせたが、石見銀山の鉱山活動も次第に枯渇し、連動するように停止したため、結果的に多くの考古学的遺跡が良好な状態で保存されることにつながった。

 

●登録基準(ⅴ)

鉱山遺跡、街道、港など現在は山林の景観に覆われ、文化的景観の「残存する景観」は、銀生産に関わった人々が長く生活してきた集落の「継続する景観」の地域を含んでおり、歴史的土地利用のあり方を示す。

 

構成資産

銀鉱山跡と銀山街、街道、港と港街の3分野で14の構成資産からなる。

①銀鉱山跡と銀山街

(1)銀山柵内(ぎんざんさくのうち)

採掘、選鉱・製錬・精錬まで、一連の工程が行われた銀鉱山跡。龍源寺間歩、清水谷精錬所跡、石銀(いしがね)遺跡、清水寺、唐人屋敷跡など、当時の様子がわかる遺構が残っている。

※「間歩(まぶ)」とは手掘りの坑道のことで600ほどある。

(2)代官所

(3)矢滝城跡(やたき)

(4)矢筈城跡(やはず)

(5)石見城跡(いわみ)

3~5は石見銀山を防御するための山城遺構で、いずれも中世山城の立地・形態をよく留める。

(6)大森銀山重要伝統的建造物群保存地区

鉱山に隣接する谷間に発展した鉱山街。現在は南北約2.8kmの範囲に、伝統的な木造建築が立ち並ぶ集落が展開。南側の「鉱山地区」と北側の「大森地区」に分かれる。

(7)宮の前地区

(8)重要文化財熊谷家住宅

大森地区における最大規模の商家建築。

(9)羅漢寺五百羅漢

②街道

(10)鞆ヶ浦道(ともがうらどう)

(11)温泉津沖泊道(ゆのつおきどまりどう)

③港と港街

(12)鞆ヶ浦

16世紀前半、博多に向けて銀鉱石や銀を積み出した港。

(13)沖泊

16世紀後半にかけて、精錬した銀の積み出しや石見銀山への物資の補給を担う。

(14)温泉津重要伝統的建造物群保存地区

 

歴史

1526年に発見され、当時、日本最大の貿易港であった博多の豪商である神屋寿禎(かみやじゅてい)によって開発が進められる。16世紀前半の石見地方は、博多を拠点に中国、朝鮮との貿易を盛んに行っていた戦国大名大内氏支配下にあり、神屋もその保護のもと、中国の貿易と関わっていた。産出した銀鉱石を、鞆ヶ浦港から博多に送っていたため、鞆ヶ浦には多く人が移り住み、次第に集落が広がる。

1533年、神屋は朝鮮から伝来した「(灰吹法はいふきほう)」という新たな技術を用いて銀精錬を行うことで、石見での銀産出量は飛躍的に増大。

1550年代、大内氏が内紛によって滅亡すると、近隣地域の有力大名による争奪戦が勃発し、矢筈城や石見城では激しい攻防が繰り広げられる。

1562年に制したのは安芸地方の毛利氏。毛利氏は銀山と港の間に、新たに街道を整備。

1600年の関ケ原の戦い後、徳川幕府支配下に置かれる。奉行としては件された大久保長安のもと鉱山経営が行われた。大森地区の整備を進め、さらに産出量は増加。

1620~1640年代の最盛期には、年間1000~2000kgの銀が産出。しかし、その後は鎖国政策、銀の枯渇もあり、減少の一途をたどり、1869年個人業者へ払い下げられ、1923年に休山した。

灰吹法 - 大学生がつくる地域活性化サイト ―島根県石見地方からの情報発信―

灰吹法 - 大学生がつくる地域活性化サイト ―島根県石見地方からの情報発信―

 

大内氏

1528年、大内義興が死去し、義隆の時代になると、周防(現山口県東部)、長門(現山口県西部)、石見(現島根県西半部)、安芸(現広島県西半部)、備後(現広島県東部)、豊前(現福岡県北東部)、筑前(現福岡県北西部)の7か所を領有する、名実共に西国一の戦国大名になる。しかし、大内氏が衰退するのも義隆の時代だった。1541年、出雲国の遠征失敗での大敗を機に内部内乱のような状態になる。1551年、義隆は追い込まれ自害する。これに乗じて、安芸国の最大勢力となっていた毛利元就が侵攻する。1557年に大内義長は自害し、大内氏は滅亡する。

 

毛利氏

大内氏を滅亡させた毛利氏はその所領する土地を手に入れ、中国地方最大の戦国大名となる。1562年に石見銀山も制し、管理下に置く。しかし、関ケ原の戦いで毛利氏の勢力は一気に失われる。実は天下分け目の関ケ原の戦いで総大将だったのが、東の徳川家康、西の毛利輝元(元就の孫)だったそう。勝手なイメージで石田三成だっと思っていました。実際に輝元は戦場にはいなかったようで、指揮をしていたのは石田三成なよう。この辺りは調べて奥が深いのここまで。という事で関ケ原の戦いで敗れたので、毛利氏の勢力が一気に失われたのも納得。そして徳川幕府石見銀山が支配されたのも納得ですね。

 

 

 過去問にチャレンジ!!

2017年7月1級問題

【問55】

石見銀山遺跡とその文化的景観』に含まれる鉱山街である大森地区を徳川幕府支配下で整備し、銀山経営の新たな拠点とした人物として、正しいものはどれか

①本城常光 ②尼子経久 ③大内義興 ④大久保長安

 

解答 答えは④

 

2017年12月問題

【問19】

日本で文化的景観の価値が認められている『石見銀山遺跡とその文化的景観』で、鉱山でありながら自然景観が残された主な理由として、正しいものはどれか。

①森林が薪炭材の供給源として保護されたため

②森林で貴重な坑道の入り口を隠すため

③苛酷な労働環境であった坑道内部の気温を下げるため

④鉱山開発に労働力を優先的に回し森林開発が行われなかったため

 

解答 答えは①

石見銀山の遺構の周囲には、19世紀まで銀生産や住民たちの生活で使用された薪炭材(しんたんざい)の供給源であった森林をはじめ、豊かな自然環境が残されている。鉱山の運営、人々の暮らしの様子を物語る景観が、広い範囲でかつ良好な状態で残されていることが、文化的景観として認められた。

 

2016年7月1級問題

【問76】

石見銀山遺跡とその文化的景観』の「銀山柵内」に含まれる資産として、正しくないものはどれ

①龍源寺間歩 ②清水谷精錬所跡 ③石銀遺跡 ④石見城跡

 

解答 答えは④

石見城跡は単独の構成資産となっている。

 

2016年12月1級問題

【問27】

石見銀山遺跡とその文化的景観』に残されている森林の説明として、正しいものはどれか

ミズナラシナノキなどからなる冷温帯性落葉広葉樹林が広がる

②日華植物区系に属する全ての植物を見ることができる

③19世紀まで銀生産や地域住民の生活で使用された薪炭材の供給源であった

④奉行の大久保長安林業からの産業転換を図り樹木の伐採を禁止したため残された

 

解答 答えは③

 

観光

石見銀山を訪れた際は大森地区に立ち寄りたい。石見銀山|住人が守りつづけた町並みと暮らし:JR西日本

石見銀山|住人が守りつづけた町並みと暮らし:JR西日本

 

御前そば

 御前そば

 

築100年の古民家を改装したお店のよう。羅漢寺に湧く名水を使って打っているおそばのようです。食べてみたいですね。

 

宿泊

石見銀山周辺に泊まるというよりは東部の出雲・松江方面に宿泊すると出雲大社松江城足立美術館といった所への観光がしやすいかと思われます。

 

 市町村紹介トップ | しまねUIターン総合サイト|くらしまねっと 〜しま ...

市町村紹介トップ | しまねUIターン総合サイト|くらしまねっと 〜しまねで新しい生活を始めませんか?〜

石見銀山がある大田市は石見地方と出雲地方の境目にあります。歴史上においても同じ県なのに、文化が違うのです。出雲は神話の話で登場するように、古くからその歴史があり、石見は大内氏などの支配にもあるように支配されることで他県や諸外国の文化と交流があったとされています。私が島根に住んでいたときも近いようで遠い、それが出雲地方でした。

島根には石見、出雲、そして隠岐と地方によって雰囲気も違うので、時間があればゆっくり各地を回ってほしいと思います。

宿泊に関しては人口の比率からもやはり出雲、松江方面が便利です。

そして玉造温泉がとっても有名です。玉造温泉の歴史は深く、奈良時代初期からあったとされ、日本でも最古の歴史を持つ温泉。美肌の湯としても有名です。

 

白石家は創業303年と歴史がり、じゃらんアワードや楽天アワードでも受賞の常連。

ぜひ島根旅行の際には検討してみてほしいと思います。検索は楽天トラベルから「白石家」のキーワード検索で。