姫路城
登録年 1993年 登録基準 (ⅰ)(ⅳ) 文化遺産
登録基準
登録基準(ⅰ)
大天守をはじめ建造物群のデザインには、木造構造の外側を土壁で覆い、その上に白漆喰を施した簡素な素材の外観に、複雑な構造の配置や屋根の重ね方を組み合わせる独自の工夫が見られる。別名「白鷺城」が示すように、その美しさは日本の木造建築のなかでも再興水準に達し、世界的にも類のない傑作。
しらさぎ画像元:https://kasukabe-farm.com/rice/egret/
登録基準(ⅳ)
日本の城郭建築が最盛期を迎えた17世紀初頭に築かれた姫路城は、天守群を中心に櫓(やぐら)や門、土塀などの建造物のほか、石垣、濠なども良好に保存されており、防御にも創意を凝らした日本独自の城郭構成を示す代表的な建造物。
姫路城の狭間:○や△、▢といった形が並ぶ。縦長の▢は矢狭間、○や△は鉄砲狭間
歴史
16世紀末、羽柴(豊臣)秀吉は中国地方を治める毛利家攻略の拠点として、古くから西日本における交通の要衝であった姫路市に新たな城を築くことを決める。当時、姫丘(日女道丘:ひめじおか)と呼ばれていたこの地域にあった城郭に、秀吉は1580年に手を加え、3層の天守閣を含む近代城郭とした。
1600年の関ケ原の戦いの後、城主となった徳川家康の娘婿である池田輝政は、1601年から1609年にかけて大改修を行う。シンボルである外観5層の大天守や2重の濠で囲み内郭や外郭を区分する曲輪構成などは輝政の時代に整備されたもの。
1617年に城主となった本多忠政は、長男の忠刻とその妻である千姫の居住の場となる西の丸の整備を行う。周辺に城下町も整備し、中心地としての役割を果たす。
江戸時代が終わると、明治政府は姫路城を軍用地として接収し、陸軍師団司令部施設や兵舎などが置かれた。
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豊臣秀吉は織田信長に仕えていましたが1582年の本能寺の変で信長が明智光秀に殺されると、山崎の戦いで光秀を討ちます。その後、豊臣政権に移っていく。画像の通り、毛利と秀吉の位置関係を考えると姫路は重要な拠点だったといえそうです。
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2017年7月1級問題
【26】
『姫路城』は、繰り返し修復を行いながら保存がなされてきた。そのうちのひとつで、政府が修復を計画するきっかけとなった1934年の出来事として、正しいのどれか。
①姫路市の財政難で西の丸跡地が売りに出された
②空襲で化粧櫓などが焼失した
③豪雨で西の丸の櫓や石垣に被害が生じた
④大地震で石垣や「ぬの門」などが崩れた
解答 正解は③
1934年、豪雨で大きな被害を生じ、政府は姫路城の修理計画を立案。
2017年12月1級問題
【79】
『姫路城』において、大天守とともに四隅に配置され天守群を構成する建造物のひとつとして、正しいものはどれか
①乾小天守
②北小天守
③菱小天守
④百間小天守
解答 正解は①
2016年7月1級問題
【35】
『姫路城』の説明として、正しくないものはどれか
①数々の戦乱による焼失を経ながらも再建・保存されてきている
②修復作業を経ても創建当時の技術や意匠を引き継いでいる
③世界的にも珍しい木造城郭建築で、保存状態も非常にいい
④修復に際しては一部近代的な素材や構造物を取り入れた
解答 正解は①
2016年12月1級問題
【68】
『姫路城』に関し、「昭和の大修理」の際に加えられたものとして、正しいものはどれか
①鉄筋コンクリート製の基礎構造物
②強化プラスチック製の石垣
③展望用の天守閣の小窓
④火災消火用の貯水池
解答 正解は①
姫路城は、築城当初より礎石が天守の重みを支えきれず傾いており、その姿は「東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか」と謡われるほど。そのため、「昭和の大修理」の際に礎石が取り除かれ、鉄筋コンクリート製の基礎構造物に取り替えられた。