長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
登録年2018年 登録基準(ⅲ)文化遺産
登録基準
登録基準(ⅲ)
長崎、天草地方で潜伏キリシタン達が、禁教期に密かに信仰を続ける中ではぐくんだ宗教的伝統の存在を証明している。
江戸時代から明治時代にかけ約250年にわたり続いた禁教期に、固有の信仰を伝えることで独自の宗教的伝統を育んだ。明治期に入って禁教が解かれる終焉に向けて、徐々に変容。12の構成資産はその変容の過程を表す。
構成資産
2県8市に点在する10の「集落」とそれぞれ1つの「城跡」と「聖堂」という、12の構成資産からなる。構成資産が示す宗教的伝統の歴史的な変容は、大きく4つの時代に分けられる。
1.始まり(17世紀初頭~中頃)
1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し日本にキリスト教を伝えてから、1550年に平戸で布教を行い人々にキリスト教の教えが浸透していく一方、豊臣秀吉や徳川幕府によってキリスト教信仰が禁止され、キリシタン達が禁教の下でも密かに信仰を決意する時代。
①原城跡
島原・天草一揆の主戦場である原城跡がこの時代の証明となる。この一揆は江戸幕府に大きな衝撃を与え、その後の海禁体制(鎖国)が確立されるとともに、潜伏キリシタンの歴史が始まる。
島原の乱(島原・天草一揆)1637年12月11日~1638年4月12日
島原の乱は江戸時代初期におこった日本の歴史史上最大の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦となる。
鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、本格的な鎖国が始まった。以後、大政奉還後の戊辰戦争に至る230年間、3桁の死者が発生するような紛争は記録されておらず、1000万人以上の国家として、世界史にも類を見ない太平の時代が到来する。
島原の乱といえば、天草四郎が有名。当時16歳。本名は益田四郎時貞。
2.形成(17世紀中頃~19世紀初頭)
潜伏キリシタン達が神道の信者や仏教徒などを装いながら、密かにキリスト教信仰を続ける方法を作り上げていった時代。
②③平戸の聖地と集落「春日集落と安満岳」「中江ノ島」
キリスト教伝来以前から山岳信仰の場であった安満岳や、キリシタン殉教地の中江ノ島を聖地として独自の信仰を続けた集落。
④天草の崎津集落
生活、生業に根差したアワビ貝など身近なものをキリシタンの信仰具として代用、漁村独自の信仰を続けた集落。大黒天や恵比寿神をキリスト教の唯一神デウスとして崇拝。
⑤外海の出津集落
聖画像を密かに拝むことによって自らの信仰を隠し、教理書や教会暦をよりどころとして信仰を続けた集落。この地域の信者が五島列島など離島部へ移住していった。
⑥外海の大野集落
表向きは仏教徒や集落内の神社の氏子となって神道を装いながら、信仰対象の神社を祈りの場として信仰を続けた集落。
3.維持、拡大(18世紀末~19世紀中ごろ)
潜伏キリシタンの信仰を続けるために、外海(そとめ)海域からより信仰を隠すことができる五島列島の島々に移住していった時代。五島への移住は藩の開拓移民政策と深く関係しており、共同体を維持したい潜伏キリシタン達と未開地に移民を進めたい五島藩と大村藩(外海のある地域)の共通の思惑から、移民のキリスト教信仰が黙認されていた側面もあった。
⑦黒島の集落
平戸藩の耕作移住の推奨に応じ、牧場跡の再開発地となっていた場所に移住、仏教寺院で密かに信仰を続けた集落。
⑧野崎島の集落跡
神道の聖地であり、沖ノ神嶋神社の神官と氏子の居住地の他は未開拓地となっていた野崎島に移住し、神道への信仰を装いながら信仰を続けた集落。
⑨頭ヶ島の集落
病人の療養地として使われていた島へ、仏教の開拓指導者に従って移住することで信仰を続けた集落。
⑩久賀島の集落
五島藩の開拓移民政策に従い、未開拓地に移住して信仰を続けた集落。
⑪奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)
既存の集落から離れた海に近い狭い谷間に移住し、地勢に適応しながら信仰を続けた集落。
4.変容、終わり(19世紀後半)
約200年ぶりにキリスト教の信仰を公に告白し世界中を驚かせた「信徒発見」から教会堂が築かれていく時代。この時代を証明するのが、シンボルともいえる国宝「大浦天主堂」。1865年に浦上地区の潜伏キリシタン達が大浦天主堂を訪れ信仰を告白した「信徒発見」は、奇跡としてローマ教皇にも伝えられた。その後1873年にキリスト教が解禁されると潜伏キリシタン達は、カトリックに復帰する者や仏教や神道を信仰する者、禁教期の信仰を続ける者(かくれキリシタン)などへ分かれていく。
⑫大浦天主堂
日本の開国により来日した宣教師が1864年に建てた教会堂。1953年に洋風建築として初めて国宝に指定された。
歴史
日本の西端に位置する長崎は16世紀後半、海外との交流の窓口であったため、多くの宣教師が定住し、人々は長きにわたり直接、宣教師から指導を受けることができた。そのため、長崎と天草地方の民衆は、他の地域と比べてキリシタンの信仰が深く定着した。
17世紀、江戸幕府によって禁教政策がとられ、宣教師の国外追放や教会堂の破壊が行われた。1644年に最後の宣教師が殉教し、日本国内から宣教師がいなくなると、日本のキリシタン達は自分たちで信仰を続けていかなければならなくなった。長崎と天草地方ではこうした背景の下、2世紀以上に及ぶ長い禁教期に独自の信仰形態が生まれた。