石見銀山遺跡とその文化的景観

登録年 2007年/2010年範囲変更 登録基準  (ⅱ)(ⅲ)(ⅴ) 文化遺産

島根県

 

 

登録基準

●登録基準(ⅱ)

16~17世紀初頭の大航海時代石見銀山における銀の生産は、アジア及びヨーロッパの貿易国と日本との間における重要な商業的・文化的交流を生み出した。

 

当時、日本産の銀の産出は世界の1/3~1/4を占めたと考えられる。しかし16世紀後半のスペインによる新大陸のポトシ銀山の開発から、現在のボリビアやメキシコ産のメキシコ銀が増大し、スペイン銀貨といわれるようになり、次第に日本銀は衰退。

ボリビアの『ポトシの市街』も世界遺産に登録されているよ。最新のアマルガム法が取り入れられ、17世紀半ばまでの約100年間で、世界の銀産出量の半分を占めた。

 

●登録基準(ⅲ)

小規模な「労働集約型経営」に基づく優れた運営形態の進化をもたらし、採掘から精錬までの一連の技術全体を包括。江戸時代の鎖国は、ヨーロッパの産業革命の技術導入を遅らせたが、石見銀山の鉱山活動も次第に枯渇し、連動するように停止したため、結果的に多くの考古学的遺跡が良好な状態で保存されることにつながった。

 

●登録基準(ⅴ)

鉱山遺跡、街道、港など現在は山林の景観に覆われ、文化的景観の「残存する景観」は、銀生産に関わった人々が長く生活してきた集落の「継続する景観」の地域を含んでおり、歴史的土地利用のあり方を示す。

 

構成資産

銀鉱山跡と銀山街、街道、港と港街の3分野で14の構成資産からなる。

①銀鉱山跡と銀山街

(1)銀山柵内(ぎんざんさくのうち)

採掘、選鉱・製錬・精錬まで、一連の工程が行われた銀鉱山跡。龍源寺間歩、清水谷精錬所跡、石銀(いしがね)遺跡、清水寺、唐人屋敷跡など、当時の様子がわかる遺構が残っている。

※「間歩(まぶ)」とは手掘りの坑道のことで600ほどある。

(2)代官所

(3)矢滝城跡(やたき)

(4)矢筈城跡(やはず)

(5)石見城跡(いわみ)

3~5は石見銀山を防御するための山城遺構で、いずれも中世山城の立地・形態をよく留める。

(6)大森銀山重要伝統的建造物群保存地区

鉱山に隣接する谷間に発展した鉱山街。現在は南北約2.8kmの範囲に、伝統的な木造建築が立ち並ぶ集落が展開。南側の「鉱山地区」と北側の「大森地区」に分かれる。

(7)宮の前地区

(8)重要文化財熊谷家住宅

大森地区における最大規模の商家建築。

(9)羅漢寺五百羅漢

②街道

(10)鞆ヶ浦道(ともがうらどう)

(11)温泉津沖泊道(ゆのつおきどまりどう)

③港と港街

(12)鞆ヶ浦

16世紀前半、博多に向けて銀鉱石や銀を積み出した港。

(13)沖泊

16世紀後半にかけて、精錬した銀の積み出しや石見銀山への物資の補給を担う。

(14)温泉津重要伝統的建造物群保存地区

 

歴史

1526年に発見され、当時、日本最大の貿易港であった博多の豪商である神屋寿禎(かみやじゅてい)によって開発が進められる。16世紀前半の石見地方は、博多を拠点に中国、朝鮮との貿易を盛んに行っていた戦国大名大内氏支配下にあり、神屋もその保護のもと、中国の貿易と関わっていた。産出した銀鉱石を、鞆ヶ浦港から博多に送っていたため、鞆ヶ浦には多く人が移り住み、次第に集落が広がる。

1533年、神屋は朝鮮から伝来した「(灰吹法はいふきほう)」という新たな技術を用いて銀精錬を行うことで、石見での銀産出量は飛躍的に増大。

1550年代、大内氏が内紛によって滅亡すると、近隣地域の有力大名による争奪戦が勃発し、矢筈城や石見城では激しい攻防が繰り広げられる。

1562年に制したのは安芸地方の毛利氏。毛利氏は銀山と港の間に、新たに街道を整備。

1600年の関ケ原の戦い後、徳川幕府支配下に置かれる。奉行としては件された大久保長安のもと鉱山経営が行われた。大森地区の整備を進め、さらに産出量は増加。

1620~1640年代の最盛期には、年間1000~2000kgの銀が産出。しかし、その後は鎖国政策、銀の枯渇もあり、減少の一途をたどり、1869年個人業者へ払い下げられ、1923年に休山した。

灰吹法 - 大学生がつくる地域活性化サイト ―島根県石見地方からの情報発信―

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大内氏

1528年、大内義興が死去し、義隆の時代になると、周防(現山口県東部)、長門(現山口県西部)、石見(現島根県西半部)、安芸(現広島県西半部)、備後(現広島県東部)、豊前(現福岡県北東部)、筑前(現福岡県北西部)の7か所を領有する、名実共に西国一の戦国大名になる。しかし、大内氏が衰退するのも義隆の時代だった。1541年、出雲国の遠征失敗での大敗を機に内部内乱のような状態になる。1551年、義隆は追い込まれ自害する。これに乗じて、安芸国の最大勢力となっていた毛利元就が侵攻する。1557年に大内義長は自害し、大内氏は滅亡する。

 

毛利氏

大内氏を滅亡させた毛利氏はその所領する土地を手に入れ、中国地方最大の戦国大名となる。1562年に石見銀山も制し、管理下に置く。しかし、関ケ原の戦いで毛利氏の勢力は一気に失われる。実は天下分け目の関ケ原の戦いで総大将だったのが、東の徳川家康、西の毛利輝元(元就の孫)だったそう。勝手なイメージで石田三成だっと思っていました。実際に輝元は戦場にはいなかったようで、指揮をしていたのは石田三成なよう。この辺りは調べて奥が深いのここまで。という事で関ケ原の戦いで敗れたので、毛利氏の勢力が一気に失われたのも納得。そして徳川幕府石見銀山が支配されたのも納得ですね。

 

 

 過去問にチャレンジ!!

2017年7月1級問題

【問55】

石見銀山遺跡とその文化的景観』に含まれる鉱山街である大森地区を徳川幕府支配下で整備し、銀山経営の新たな拠点とした人物として、正しいものはどれか

①本城常光 ②尼子経久 ③大内義興 ④大久保長安

 

解答 答えは④

 

2017年12月問題

【問19】

日本で文化的景観の価値が認められている『石見銀山遺跡とその文化的景観』で、鉱山でありながら自然景観が残された主な理由として、正しいものはどれか。

①森林が薪炭材の供給源として保護されたため

②森林で貴重な坑道の入り口を隠すため

③苛酷な労働環境であった坑道内部の気温を下げるため

④鉱山開発に労働力を優先的に回し森林開発が行われなかったため

 

解答 答えは①

石見銀山の遺構の周囲には、19世紀まで銀生産や住民たちの生活で使用された薪炭材(しんたんざい)の供給源であった森林をはじめ、豊かな自然環境が残されている。鉱山の運営、人々の暮らしの様子を物語る景観が、広い範囲でかつ良好な状態で残されていることが、文化的景観として認められた。

 

2016年7月1級問題

【問76】

石見銀山遺跡とその文化的景観』の「銀山柵内」に含まれる資産として、正しくないものはどれ

①龍源寺間歩 ②清水谷精錬所跡 ③石銀遺跡 ④石見城跡

 

解答 答えは④

石見城跡は単独の構成資産となっている。

 

2016年12月1級問題

【問27】

石見銀山遺跡とその文化的景観』に残されている森林の説明として、正しいものはどれか

ミズナラシナノキなどからなる冷温帯性落葉広葉樹林が広がる

②日華植物区系に属する全ての植物を見ることができる

③19世紀まで銀生産や地域住民の生活で使用された薪炭材の供給源であった

④奉行の大久保長安林業からの産業転換を図り樹木の伐採を禁止したため残された

 

解答 答えは③

 

観光

石見銀山を訪れた際は大森地区に立ち寄りたい。石見銀山|住人が守りつづけた町並みと暮らし:JR西日本

石見銀山|住人が守りつづけた町並みと暮らし:JR西日本

 

御前そば

 御前そば

 

築100年の古民家を改装したお店のよう。羅漢寺に湧く名水を使って打っているおそばのようです。食べてみたいですね。

 

宿泊

石見銀山周辺に泊まるというよりは東部の出雲・松江方面に宿泊すると出雲大社松江城足立美術館といった所への観光がしやすいかと思われます。

 

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市町村紹介トップ | しまねUIターン総合サイト|くらしまねっと 〜しまねで新しい生活を始めませんか?〜

石見銀山がある大田市は石見地方と出雲地方の境目にあります。歴史上においても同じ県なのに、文化が違うのです。出雲は神話の話で登場するように、古くからその歴史があり、石見は大内氏などの支配にもあるように支配されることで他県や諸外国の文化と交流があったとされています。私が島根に住んでいたときも近いようで遠い、それが出雲地方でした。

島根には石見、出雲、そして隠岐と地方によって雰囲気も違うので、時間があればゆっくり各地を回ってほしいと思います。

宿泊に関しては人口の比率からもやはり出雲、松江方面が便利です。

そして玉造温泉がとっても有名です。玉造温泉の歴史は深く、奈良時代初期からあったとされ、日本でも最古の歴史を持つ温泉。美肌の湯としても有名です。

 

白石家は創業303年と歴史がり、じゃらんアワードや楽天アワードでも受賞の常連。

ぜひ島根旅行の際には検討してみてほしいと思います。検索は楽天トラベルから「白石家」のキーワード検索で。