日光の社寺
登録年 1999年 登録基準(ⅰ)(ⅳ)(ⅵ)文化遺産
栃木県
登録基準
⚫登録基準(ⅰ)
2社1寺のそれぞれの建造物は、天才的な芸術家の作品である。
⚫登録基準(ⅳ)
権限造り様式が用いられ、後の霊廟建築や神社建築の規範になっている。統一感を出すための配置、彩色が取り入れられ、優れた建築景観をつくりあげている。
⚫登録基準(ⅵ)
建造物が神道や仏教の特質を表し、自然環境と一体に作られる景観は、独自の神道思想と密接に関連する。
構成遺産
東照宮、二荒山神社、輪王寺(りんのうじ)の2社1寺に属する103の建造物
●東照宮
1616年に創建された徳川家康の霊廟。本殿と拝殿の間を石の間で結ぶ東照宮本社にみられる様式は「権現造り」の完成形といわれる。
東照宮にまつわる豆知識
①逆柱(さかさばしら)
陽明門は有名で1636年に建造された東照宮を代表する建造物。建物全体が装飾彫刻や文様で埋め尽くされる。1本だけ彫刻の模様が逆になっている「逆柱」には、「建物は完成と同時に崩壊がはじまる」という伝承に基づいて、わざと未完にすることで災いを避けるという意味が込められている。
穀蔵院飄戸斎(こくぞういん ひょっとこさい)と逆柱 - other side
陽明門には12本の柱があり、グリ紋という模様で装飾されていますが、1つだけ画像の右側のように向きが反対になっている。
②三猿の意味
神厩舎(しんきゅうしゃ)に「みざる、きかざる、いわざる」の画があります。
全部で8面で構成されている内の2画目だそう。
1~8画の猿の画を通して人生の生き方について描かれているそうです。その内の2画目が有名な3匹の子ザルの画です。
神厩舎に施されているのは古来、猿が馬の病気を治す守り神とされてきたためという。
1画目は「母子の猿」。手をかざし遠くを望む母を子が見上げる。子供の幸せを願う母の姿。
2画目の「三猿」は、幼少期がテーマで「物心がつく時期は、悪いことを見たり、聞いたり、話したりせず、純粋な心のまま成長せよ」という教えを表す。
その後(3画目)は、じっくり座って将来を考える「独り立ち前」
天を仰ぎ見て志を高く持つ「青年期」
崖っぷちに遭遇して真下を覗きこむ猿と慰める猿を描いた「人生の曲がり角」
以上のここまでが厩舎の北側に位置し、実際に角を曲がって西側に移動すると、新たな人生が開ける。
恋愛中で物思いにふける「恋わずらい」を経て、
ついに「結婚」。2匹の前に荒波が彫られ、「力を合わせれば、困難も乗り越えられる」との教訓を示す。
「妊娠した猿」が最後にくる。
参考画像
http://homer.pro.tok2.com/20100606tousyouguusinnkyuusya9.jpg
子が生まれると最初に戻り、また新たな人生が始まる。
③日光東照宮と江戸との位置関係
東照宮に家康の霊廟があるのは有名ですが、なぜ日光だったのか。これもまた諸説あるようですが、有名なのは陰陽道の影響。日光東照宮は北斗七星の配置にデザインされているといわれ、主要な建物を線で結ぶと北斗七星の寸分と同じように造られているそう。さらに、鳥居、陽明門、唐門、本殿を結ぶ延長線上に北極星がくるように設計。その線の真南に行くと、江戸があるといわれている。この江戸を起点とし、日光、北極星までのラインを「北辰の道」と呼ばれる。
古代中国では、北極星は宇宙全体の神だといわれていて、日光東照宮を拝することは北極星を拝することと同じ。家康を神格化し、宇宙全体の神と一体化し、北から江戸を見守っているというなんとも壮大な構図になっている。
④徳川家康はなぜ日光を選んだのか。
③でも述べたが、日光を選んだのは諸説あるとされる。遺言や手本にしていた人物の影響もあったのかもしれない。
徳川家康は1616年4月17日に駿府(すんぷ)城で亡くなったされる。胃がんであったという。年齢は75歳。当時としてはとても長生きの部類ですね。現在の男性の平均寿命とさほど変わらないです。藤枝で鷹狩りを楽しんでいた時に激しい胃痛に襲われ、床に伏せたという。亡くなる半月前、側近の天海ら3人を呼び「遺体は駿河の久能山に葬り、葬儀を江戸の増上寺で行い、三河の大樹寺に位牌を納め、1周忌が過ぎてから、下野の日光山に小さき堂を建てて勧請せよ」と指示し、「(日光に祀れば八州の鎮守になるだろう」と遺言したとされる。
遺言にある久能山は駿府城から南東8キロと近く、江戸の増上寺は徳川の、大樹寺は父祖松平家の菩提寺だった。しかし日光は訪れたこともない遠隔地。家康は吾妻鏡(鎌倉幕府の歴史をつづった)を愛読するなど源頼朝を手本にしていたとされる。頼朝が崇敬した二荒神を意識していたのかもしれない。
日光連山の主峰、日光三山(男体山、女峰山、太郎山)を神体として祀る神社。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、田心姫命(とごりひめのみこと)、味すき高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)。
(1)大己貴命は大国主命(オオクニヌシノミコト)の青年期の名。
(2)田心姫命はアマテラスとスナノヲの誓約で生まれた宗像三女神の一神。宗像三女神は海上交通の神として有名。
日光において山岳信仰が隆盛期を迎えた中世以降、その中心となり、東照宮の造営に伴い、1619年から本殿をはじめ社殿が造営された。23棟が重要文化財に指定。
●輪王寺
766年に勝道上人が創建した「四本龍寺」が起源。
歴史
勝道上人(しょうどうしょうにん)が、2年後に寺院を建立し日光山を開山。その後、神道と仏教が融合した山岳信仰の聖地として発展。
しかし、戦国時代には大名間の争いの影響で信仰は衰退。豊臣秀吉が大部分の領地を没収し、荒廃した。
江戸時代に僧の天海が再興し、建造物の修繕を行う。1616年に徳川家康が病没し、遺体が日光に葬られ、1617年に霊廟である「東照社(=1645年に東照宮に改称)」が造営。1634年に「寛永の大造替(だいぞうたい)」と呼ばれる大改修で、権現造りとなる。
過去問にチャレンジ!!
2017年7月1級問題【問82】
日光の社寺に関し、東照宮本社と輪王寺大ゆう院において用いられている権現造りの違いとして、正しいものはどれか。
①輪王寺大ゆう院では、拝殿から「石の間」、本殿へと、屋根が高くなっている
②輪王寺大ゆう院では、本殿と拝殿の間に石造りの「石の間」がある
③東照宮本社では、本殿と拝殿の間に一段低い「相の間」がある
④東照宮本社では、本殿の床が拝殿よりも高くなっている
解答 答えは④
権現造りとは横長の拝殿と本殿の間を石の間でつなぎ一棟の建物とする。
東照宮本社では、山の斜面を活かし、一番奥に位置する本殿の床を拝殿より高くする造りになっている。一方、輪王寺大ゆう院では石の間を「相の間」と称し、拝殿と相の間の高さは同じいなっている。
2017年12月1級問題【問44】
日光の社寺に関し、室町時代を中心に山岳信仰の聖地として栄えた日光山が戦国時代に荒廃した原因のひとつとして、正しいものはどれか。
①勝道上人が他界し弟子たちが日光山を去ったため
②豊臣秀吉によって大部分の領地が没収されたため
③大地震により二荒山神社と輪王寺の主要な建造物が崩壊したため
④織田信長と対立し焼き討ちにあったため
解答 答えは②
昔から山岳信仰の聖地として発展。
鎌倉時代→日光は関東の鎮護となった源頼朝をはじめ歴代将軍から崇敬を集め、宗教活動は活発。
戦国時代→各地の大名間の勢力争いは日光にも及ぶ。その混乱で信仰も次第に衰退。1590年に豊臣秀吉によって大部分の領地が没収され、山中の建造物が著しく荒廃。
江戸時代→家康の側近であった僧の天海が日光山の再興。
2016年7月1級問題【問73】
日光の社寺などにおいて見られる「仏や菩薩が神に姿を変えて現れる」という神仏習合の意味となる考え方として、正しいものはどれか。
①因中有果説
②本地垂じゃく説
③涅槃寂静説
④常楽我浄説
解答 答えは②
①は数学用語で原因の中にすでに結果の中にすでに性があるという説。
③は仏教用語で煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静かな悟りの境地(寂静)であるという説。
2016年12月1級問題【問47】
日光の社寺の構成資産「二荒山神社」の祭神として正しくないのはどれか
解答 答えは②
市杵島姫命(イチキシマヒメ)は宗像三女神の一柱。二荒山神社には祀られていない。
宿泊、アクセス
栃木県という事で、新幹線や特急など多くのアクセスがあり、比較的日帰りでもめぐることができそう。
しかし、もし泊まってゆっくり日光を巡るとすれば「奥の院 ほてるとく川」に泊まってみたい。美しい日本庭園や創作料理などホテルの部屋数も22と静かな時の流れを満喫することができそう。